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2017年03月15日 14:37
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大韓民国の建国史(62)
大韓民国の運命がかかった洛東江防衛・大邱死守

 米空軍は8月16日、B‐29爆撃機98機を出撃させて倭館付近の人民軍集結地に絨毯爆撃を敢行した。人民軍帰順者などから入手した正確な情報に基づいた集中爆撃と国連軍の適切な防御態勢で、人民軍は8月中に、なんと7万人の兵力を失った。北韓空軍は南侵後1カ月で100機ほどが撃墜され、7月20日以降、空軍作戦は中断された。
政府は8月18日、臨時首都を釜山に移転した。戦況が不利だったため、米8軍のウォーカー司令官は、国防部と内務省も釜山へ撤退するよう申性模国防長官に勧めた。申性模は国防部を釜山に撤収し、趙炳玉内務部長官にも移動するよう言った。しかし、趙炳玉は頑なに拒否し、大邱死守を主張。国連軍に配属されていた警察軍を指揮した。趙炳玉は直接、ウォーカーを訪ねて「大邱が陥落すれば、いくら国連軍でも釜山を固守できない悲劇を招く可能性がありますので、大邱からの撤退に反対する」と強く主張した。
当時、米8軍司令部も釜山へ移動する準備を終えていたが、ウォーカーは趙炳玉の説得に心を変えて「私も司令官室に野戦ベッドを置いて作戦指揮をするから、貴下も続けて警察軍の作戦に協力してほしい」と話し、移動計画を取り消した。
趙炳玉は慶北道庁の臨時内務部に戻って全警察幹部を招集した。他部処の公務員はみな大邱を離れていたため、焦っていた警察幹部たちは「ようやく避難令かな」と思っていた。ある幹部は、荷物をまとめて出てきたほどだ。趙炳玉は「われわれは大邱を死守する。今から離脱者は戦時軍法を適用して処罰する」と宣言した。警察幹部たちは、「内務部長官の蛮勇のため私たちはみな死ぬことになった」と不平を言い、一部はその場に座り込んで涙を流した。
趙炳玉の指示による内務部の大邱残留は、混乱を収めるのに大いに寄与した。李承晩は、後々趙炳玉の残留決断を高く評価した。黄圭冕秘書の証言によると、李承晩も大邱を最後まで離れようとしなかった。ムーチョ大使と米軍将星たちは8月初めから大統領に釜山へ移動するよう勧告していたが、李承晩はその勧めを断固として断った。表面的な理由は、「私が南方へ下がらないことで、国民の動揺が少なくなる」というものだったが、実際には米軍の戦意に対する疑問からだった。李承晩は秘書陣によくこんな話をした。
「私が釜山へ移動しないのはアメリカ人が信じられないためだ。彼らは、私がここにこのように居座り続けるから、ここに留まっているわけで、私が釜山に行けばいつ大邱を放棄するかわからない。死のうと生きようと洛東江を最後の防衛線として耐えなければならない」
多富洞と浦項一帯での激戦に続いて、9月4日から永川をめぐる大血闘が展開された。永川は洛東江戦闘の最後の決戦場として国軍第2軍団長の劉載興将軍が防御していた。朴成哲が指揮する人民軍第15師団は、永川で劉載興の部隊と血闘を行った。朴成哲は金日成直系の腹心で、後に北韓第2副首相になり、72年、金日成の特使として、青瓦台を訪問して朴正熙大統領に会う。
9月8日、大邱防御の戦略的要衝である永川を人民軍に奪わると、ウォーカーは、丁一権陸軍参謀総長に「韓国軍の中で最も信頼でき、よく戦う2個師団と各界各層の民間人10万人を極秘に選定してほしい。反共団体の指導層と警察幹部を民間人のリストに入れてほしい」と要請した。(つづく)

2017-03-15 3面
 
大韓民国の建国史(61)
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