第13代近肖古王は百済の王権を確立し、国土を拡大した中興の祖である。比流王が亡くなったとき、次男の近肖古は王位を継がず、汾西王の長男の契が12代王の位を継ぐ。『三国史記』には近肖古は「体貌は奇偉で識見も秀でた」とあり、王位を継げない理由は見当たらないが、母方の血を引く汾西王の長男の契が王位を継いだ。契は幼いときから馬術や弓術にも秀でた剛勇として知られ資質は優れており、王位を巡る圧力や摩擦はうかがえない。
比流王は長寿で41年もの長い間在位したことから、契は歳をとって王位を継ぐことになり、在位して2年後に亡くなる。歴史に仮定は禁物だが、もし父の汾西王が数年長生きしておれば契が王位を継ぎ、比流王は生まれなかったかも知れない。契王が亡くなると、比流王の次男である近肖古が王位を継ぎ、百済の王位はその後肖古王の子孫が中心になり、一方で王位継承のライバルである古尓王の系列は契王で途切れる。
百済の王位継承は、第5代肖古王と第8代の古尓王の系列で競い合ったようである。比流王系の第13代王と第14代王の名は、第5代肖古王と第6代仇首王の最初にそれぞれ「近」の字をつけて近肖古、近仇首王になっている。近とは身近・現在・親しいといった意味であり、今(近)の肖古王・仇首王という意味であり、それを強調した王号である。つまり百済の王位継承の本流が肖古王系で統一され、その伝統は最後の第31代義慈王まで続く。
『三国史記』には近肖古王(在位346~375)2年の正月、王は「天神と地神を祭った」とあり、始祖の温祚王を祭ったというくだりはここにもない。369年9月、高句麗の斯由王(故国原王)が2万の大軍を率いて百済との国境に駐屯して百済の民家を襲い被害を与えた。そのとき近肖古王は太子(近仇首)に出兵を命じ、高句麗軍を急襲して破り、民を救った。
371年、高句麗軍が来襲してきたときは待ち伏せて撃退し、その冬近肖古王は3万の兵を率いて高句麗の平壌城を急襲し、その戦いで高句麗の故国原王は流れ矢に当たって亡くなった。この戦いで勢いづいた近肖古王は、王都の慰礼城から20キロに満たない地域に遷都して漢山城を名乗り、国勢はさらに拡大していった。漢山城の正確な位置については諸説があるが、漢江の上流の南漢山城界隈とみられている。
(キム・ヤンギ 比較文化学者) |