国軍は倭館から東海岸までの北と東を、米軍は倭館から鎮海湾までの西側の防御を担当した。
北韓人民軍は金泉に戦線司令部を設置して金策が戦線司令官になった。北韓軍の総兵力は2個軍団13個師団で、米8軍の正面に4個師団で構成された第1軍団、国軍正面に6個師団で構成された第2軍団、そして予備として3個師団を持っていた。金日成は金泉に現れて、軍団長と師団長全員を集めて「8月15日まで釜山を占領せよ」と督戦した。
大邱北方22キロに位置する多富洞では、国軍第1師団が人民軍3個師団を相手に壮絶な戦いを繰り広げていた。北韓軍2万4000人と国軍1万人が死傷する血戦は55日間も続いた。国軍第1師団は大邱を狙う北韓軍3個師団に致命的な敗北を与えて戦況を逆転させる契機を作った。
米8軍司令官のウォーカー中将は、L‐19軽飛行機で戦線上空を飛びながらマイクを通じて直接戦闘を指揮した。当時の通信装備は非常に劣悪で、部隊間の通信が円滑に繋がらず、互いの位置を把握できずに衝突することもあった。
ウォーカーの専属操縦士であるリンチ大尉は、ウォーカーの空中指揮をうまく補佐した。ウォーカーが高度を下げるよう指示すれば、場合によってはエンジンを切って地面に触れる程度に飛行した。エンジンを止めてマイクを使用すると、その分、地上ではよく聞こえる。ウォーカーはマイクを握って「敵がそこにいる。右を攻撃せよ」、「左に迂回して窮地に陥った味方の部隊を救え」というなど、現場で命令を下した。
ウォーカーは、消火部隊を運用して危急地域を救った。マイケルリス大領(後の駐韓連軍司令官)が率いた米25師団27連隊が、まさにその消火部隊だった。多富洞が危険となれば直ちに部隊を多富洞に投入し、鎭東の峠が危険だとすれば、直ちに27連隊をそちらに向かわせた。27連隊は韓国戦争の偉大な星になった。
ムーチョ駐韓米国大使は8月14日、大邱が敵の攻撃圏に入ると、李承晩に政府を済州島に移すよう建議した。ムーチョは「敵の攻撃から遠く離れており、最悪の場合、南韓全土が共産軍に占領されても亡命政府を持続させられるため」と説明した。当時の状況をフランチェスカ夫人が記録している。
「ムーチョ大使が熱心に話しているとき、大統領は腰につけていたモーゼル拳銃を取り出した。その瞬間、ムーチョ大使は言葉を失い、顔色は青白くなった。私も驚いた。大統領は拳銃を上下に振りながら『共産党が私の前に迫ったとき、この銃で妻を撃ち、敵を殺し、残りの一発で私を撃つ。われわれは、政府を韓半島の外に移すつもりはまったくありません。みなが立ち上がって戦う。決して逃げない』と断固として語った。大統領が拳銃で何かできる状況ではなかったが、緊張したムーチョ大使はそれ以上何も言わず帰った」
その頃、米軍は洛東江の主抵抗線の外に、極秘裏に別の防衛線を準備していた。蔚山から東北17キロにある瑞洞里(慶尚南・北道の境界点)から慶尚南・北道の境界線を通って密陽の北の楡川と西の武安里の尾根に沿って馬山の東北の高地までを結ぶ約90キロの防衛線は、米8軍工兵参謀デービッドソン准将の名前から「デービッドソンライン」と命名された。マッカーサーがウォーカーに秘密裏に指令した予備の第2防衛線だった。これは主抵抗線が崩れ、大邱を失ったときの最終的防衛線で、米8軍が撤退するときに釜山港を維持するためだった。(つづく) |