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2017年03月01日 14:38
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大韓民国の建国史(60)
全面反撃のための洛東江防御線戦闘

 国軍と米軍が洛東江防衛戦を準備していた7月27日、突然マッカーサーが東京から大邱へ飛んできた。マッカーサーは、丁一権陸軍参謀総長、アーモンド将軍、ウォーカー司令官に、仁川上陸作戦構想を詳しく説明し、そのときまで洛東江戦線の防衛を頼んだ。
この日のマッカーサーの発言から、上陸は当初7月22日の計画だったが、戦況の悪化で延期したことが分かる。マッカーサーの当時の発言内容は、丁一権の自伝に記されている。
「われわれは共産軍の攻撃を牽制しながら時間と戦ってきたが、これからは勝利のために戦わねばならない。私が期する勝利とは共産軍の殲滅、この一言だ。前回、漢江防御線視察でこの決意を固め、東京へ戻ってすぐアーモンド(参謀長)に計画を指示した。仁川上陸作戦だ。だが、戦況が思うようにならなかったため、作戦決行を先送りした。
具体的に言えば、最初の計画は、「ブルーハート」だった。第1騎兵師団を上陸させようとした。Dデーは7月22日だった。しかし、ディーン師団の大田防御が危うくなり、(戦力を)浦項に回すしかなかった。第2案の「クロマイト作戦」は米本土からの第2師団と第1海兵旅団で決行しようとした。しかし、ここ洛東江戦線が緊迫したため再び延期せざるをえなかった。仁川上陸の2度目の延期だ。第2師団と海兵旅団、ハワイの第5連隊戦闘団と5個戦車大隊が8月中旬までここに来る。
だが、仁川上陸は必ず決行する。共産軍を完全殲滅できる唯一の作戦であるからだ。では、Dデーをいつにするのか。私は遅くとも1カ月後にするつもりだ。戦況もこの1カ月間で落ち着く。それまでの防衛戦では、特に丁(丁一権)将軍の韓国軍の勇戦奮闘を期待する。韓国軍は、装備や補給が十分でないが、米軍兵士には望めない反共・必勝の闘志を持っている。私もこの信念を持っている。
私はここ洛東江に歴史的なイメージを残したい。つまり、共産軍を阻止した防衛線としてではなく、民主主義の結集力をもって共産侵略軍を殲滅していく反共のスタートラインとして歴史を飾るのだ。なぜなら、スターリンは今、世界赤化を狙っている。その最初の試みがこの戦争であり、北傀軍はスターリンの傭兵である」
この言葉を聞いた丁一権は拍手をしたい興奮を抑えたと回顧録で書いている。マッカーサーは、大邱を発つ際、丁一権に言った。
「李大統領に伝えてほしい。マッカーサーは急いで帰るのでお会いできず行ったと。そして、マッカーサーは、大統領閣下の変わらぬ友人であり、永遠の反共のトリオであると」
後にこの言葉を聞いた李大統領は震える声で「ああ、そうだったか」と一言だけ言い、視線を窓の外に向けたという。
韓国の現代史において、1950年8月と9月は緊迫の連続だった。浦項‐永川‐大邱‐馬山につながる東西80キロ・南北160キロの「洛東江防衛線」と呼ばれる最後の砦で、国軍と国連軍は凄絶な防衛戦を続けた。戦線の一カ所でも突破されれば、釜山は一日か二日で共産軍の手中に落ちる状況だった。
防衛戦に臨んだ国連軍は国軍5個師団、米8軍3個師団の計8個師団だった。師団の防御正面は普通15キロだが、8個師団が240キロを防御するため、1個師団の防衛区域は通常の2倍だった。国連軍はすべての橋を爆破し、8月4日の未明、洛東江防衛線に布陣した。(つづく)

2017-03-01 3面
 
大韓民国の建国史(59)
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