等質的祖国統一の課業
義士元心昌氏は、韓民族の解放に生涯をささげたが、悲願は完結されていない。韓民族は1945年、日本の敗戦により自由を得たが、すぐさま南北に分断され、一時的と思われていた分断状態は、いつの間にか3世代を越えている。
元氏は、6・25動乱直後の統一運動の旗印を掲げながら、「8・15は、本当の意味での独立ではなく、分断されたことは、民族的な主体性が欠如したからだ」と述べ、「統一運動を成功しようとすれば、内外情勢を誘導する段階にまで格上げされなければならない」と主張した。
60年前のこの主張は、現時点でも有効に見える。南北統一を世界が認めるようにし、国際的な支持を受ける必要があるからである。しかし、残念ながら統一公共外交の具体的な実行は横歩きしている状態である。
内部に視線を移してみれば、ため息が出る。南側では、統一費用の負担を憂慮する否定論が勢力を得ており、北側では、韓国に吸収されるより、かえって中国の統制に入った方がましであるという気流が流れている。
それぞれ形態は違っても、南北韓で「分離して暮らしてもいい」という認識が芽生えている。離れて暮らしてから、あまりにも長いために感じる分断疲労感である。分断と戦争を体験した生存者が、ごく少数なった現実を反映しているともいえる。
元氏は、生前に統一運動の成功は、「実践」と大衆に向けた「宣伝啓蒙」にあると信じた。元氏は、本人の信念を本紙の前身である『統一朝鮮新聞』時代に発刊した『統一年鑑』(1964年版、1967年版)、韓民自統と韓民自青の活動家教育用資料である『統一理論集』、1968年1月から10月まで本紙に連載した「実践的統一運動の課題」などを残した。
元氏は、北韓による1・21青瓦台襲撃事件直後、朴正熙大統領と面談し、武力使用を前提にした勝共統一政策を取り下げるように直言した。政府が日本内の統一運動を反韓国運動として烙印していた時代だ。
元氏が同志らを探し回って、別れのあいさつをした記録が残っていることを見れば、当時韓国行きは、命をかけた決断であった。統一運動同志の裵鍾翊氏に会った席(1968年2月4日)で、彼はこのように言った。
「(韓国に)行って正しいことは、堂々と主張する考えだ。民族のためなら火の中でも飛び込むつもりだ。政治は現実であり、実践しなければならないものだ。無事に帰って来たら、また会おう」
以後、朴大統領は1970年8・15記念式辞で「南北が平和共存下で善意の体制対決を繰り広げよう」と宣言した。これは統一活動家である元心昌氏の平和統一の前提であった。元氏が他界してから、ちょうど1年になる日、南北韓は分断以来、初めて統一原則を合意発表した。1972年7・4南北共同声明であった。
この頃、元氏の統一運動同志である李榮根統一日報社長は、その間元氏とともに発表してきた統一理論を集約して、「統一概念の定立と統一後の国家像の範疇」(1972年)と「民主祖国統一論」(1973年)などの論文を発表した。この時、提示された統一青写真3段階は▼分断(現象)打開とこれを通じた国土の統合▼統治権力一元化を通じた統一政府樹立▼南北等質化を通じた民族同質性回復であった。
ここで言う「等質化」とは、南北韓の両社会が発展しながら、質が同じようになるという概念である。統一の究極、祖国の完成は、南北韓が等質化されて初めて実現するという意味である。
これに対して、言論人であり労働部長官を務めた南載熙氏は「南北間の吸収統一を否定し、接近可能な『統一国家像』を提示したのは、今日にも示唆するところが大きい」と評価した。
南北間の異質化、経済格差が深化した現時点で等質化は、過去より難解な課題かも知れない。ただ、明らかな事実は、分断体制から韓半島南部と北部の悲喜は行き違いになったという点である。
南部は個人の自由と民主、市場経済が保障されて豊かさを享受する一方、北部住民たちは自らが世襲独裁体制の「奴隷」であることも認知できないまま底辺の人生を生きている。
元氏が青年時代からアナーキズムに心酔したのは、個々人に自由を保障して権力は干渉を最小化する社会を理想郷として見たからである。韓国は個人の自由が保障され、民主主義が作動している。
市場経済体制で経済的な豊かさを得る機会もある。北韓は韓国と正反対だ。住民たちは暴圧的独裁政権下で個人の自由も民主主義も機能することができない、自己の財産もいつでも没収される境遇に置かれている。
「ひとりでも信じる道を行く」「民族の解放が成し遂げられてこそ、自分の人生が成立する」という信念の持ち主。義士元心昌が夢見た統一祖国の未来像は、民主的な体制で民族構成員の個々人が自由を保障され、誰もが経済的豊かさを享受して希望を抱く社会であった。
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