広開土王の後を継いだ第20代長壽王(在位AD413~491)は、即位するやいなや父の遺志を継ぎ、戦争と平和を巧みに使い分ける。即位の翌年、父の広開土王の功績を讃える広開土王碑を建立し、国勢を誇示する。
広開土王と長壽王の時代に高句麗の領土も国勢も飛躍的に拡大整備され、北東アジアにその名を馳せた。先ず、戦を繰り返していた高句麗の北側にある古代中国の晋・宋・魏などに使臣を派遣し、また派遣されてきた使臣をも受け入れて国交回復に力を注ぐ。現代流に言えば戦争から平和に国策を切り替えたのである。
外交手段をもって、国の北側にある少数民族が中心になっていた国々の脅威を和らげるのに成功した長壽王は、在位して15年(AD427)に鴨緑江の北側(集安)にあった王都(通溝にあった国内城・丸都城)を平壌に遷都した。平壌への遷都の目的は、高句麗の南側にある百済や新羅への侵攻にあった。それは遷都後間もなく百済を攻めていることからも分かる。平壌への遷都は血縁関係の濃い百済、血縁間の薄い東に位置する新羅を攻めるためでもあった。
長壽王のこうした政策には高句麗の支配層の変化、結束が強く働いていた。それまで5族時代と呼ばれている5つの小さな部族が連合して国を運営しており、一つの力に集結できずにいた。その5部族が貴族集団としてまとまり、中央集権の体制を作り上げた。それを5部族時代と呼んでいる。
そのころ高句麗固有の積石塚が生まれ、その石室の中に壁画や墨書が描かれた壁画古墳が姿を現す。
完成度の高い壁画古墳は平壌界隈に多く、集安地域には初期のものが見られる。壁画古墳については後日触れるが、それらの壁画には遠く西アジア文化の痕跡もうかがえ、仏教などを通じて新しい文化が移入され活性化が始まっている。
新しい人材や文化を受け入れ、高句麗の国勢を拡大し続けた長壽王は在位79年、99歳で逝去し、韓国歴代王歴の記録を残している。 |