統一運動の先駆者という歴史的遺産
統協(南北統一促進協議会)は南北分断以来最初に組織された南北統一運動組織であった。以後韓国でも統一を促進する政党と組織が生まれた。統協が瓦解していた1955年12月、曺奉岩を主軸に進歩党が創党され、1956年5月には在北平和統一促進協議会が結成された。在日同胞は南北韓を含め、最初に平和統一運動を主張した先駆者であった。
統協は6・25動乱を体験したことから武力統一ではなく、同族不信という戦争の傷痕を乗り越えて民族的一体感を高めようという認識のもと出発した。また、李承晩政権と金日成政権の報復的な対決意識、米軍と中共軍の南北韓駐留による緊張激化と戦争の再発の可能性を未然に摘む条件を作り出すという切迫感のなかで推進した。
そのようなことから統協は、優先的に平和統一運動の存立基盤を固める作業に着手した。そうして誕生したのが統協の第1綱領である「総親和、民族の再融和運動」だ。これは思想と信条の立場を越えて寛大な心と寛容の姿勢で協議しようという決意であった。統協のある中央委員は、当時の同胞社会に最も必要な部分を「刃物のように鋭い理性と政治感覚はもちろんだが、それよりむしろ、極めて広い心を持つ寛容」(総親和第3号、1955年3月14日付)と述べた。
朝鮮総連は統協総親和運動を単なる親睦活動にすぎないと蔑んだ。これは時代の情勢と条件を無視した虚言であり、統協の存在感を消すための幼稚な行動であった。
統協が残した歴史的遺産はこれだけではない。統協はどちらか一方を壊して統一を成し遂げようという強硬論や教祖的イデオロギー。また、外国の支援を受けて統一を図ろうという事大主義的統一論に反対した。
統協は統一の概念を設定し「民族が国家の上位にある」という立場を明確にした。統一の原則は”平和”を最優先し、平和協議を可変的戦術でみる考え方を否定した。統協の観点からみると李承晩政権の「和戦両用論」や、金日成政権の「南朝鮮人民民主主義革命論」は、自分たちの勢力を拡張するための戦術にすぎないということだ。
統協運動の精神的核心は”自主”であった。民族構成員自らが、「自身の問題である分断状況を自らの手で解決しよう」という自主的解決の前提条件に平和の確保を設定し、これを裏付ける実行案も提示した。統一国家は南北韓の自由総選挙を通じて樹立しようということだ。この時北韓は”平和統一”を口にしながらも、この案を”時期尚早”と一喝してしまった。
1955年の統協の統一論は、より現実的な実践案の提示が不足していたという欠陥もみられた。ただし彼らの認識と主張は、平和統一論を追求する人であれば誰も否定できない正当性を備えていた。
統協が残したほかの遺産を挙げるなら、南北分断後初めて左右勢力を糾合した共同運動体という事実だ。統協の幹部である中央常任委員の構成をみれば、典型的な左右連合体であるという事実を確認できる。
民団系では、民団の団長と事務総長を歴任した元心昌氏をはじめ、徐相漢(抗日闘士・民団大阪三多摩本部創立者)、裴正(抗日闘士、民団大阪本部議長)、朴準、金学鳳、鄭寅勳らとともに元心昌執行部が参加した。
朝鮮総連系では、李在東(在日朝鮮人商工連合会理事長)、申鴻湜(文団連会長)をはじめ李仲冠、南浩栄などが参加した。親日経験者では朴春琴(植民地時代の国会議員)、権逸(植民地時代の満州国判事)などがいた。中立系では、プロレタリア文学運動家の李北満、中立的統一を主張する金三奎、建青(在日朝鮮建国促進青年同盟)の統一民主同志会出身の徐鍾実、李禧元などが参加した。
互いに異なる考えの者が思想の違いを乗り越えて”統協”という運動体を通じて同志となったのだ。これらの宣言と綱領を作成しながら、「二十数回討論を繰り返した。規約に多数決制度でない全員一致制度を選んだ」(本紙1971年8月11日金泰林)。これは統協が対内外統合のために、いかに多くの力を注いだのかを知る良い事例だ。 (つづく) |