米国は第2次大戦後、世界の政治と経済を再編成する過程で、ソ連との健全な協力は可能だと楽観した。国連の発足はそのような幻想に基づいたものだった。
訪米中のチャーチル首相は1946年3月5日、ミズーリ州のウェストミンスター大学で名誉博士号を受けるとき、有名な「鉄のカーテン」演説を通じてソ連共産主義の膨張を警告した。ソ連はチャーチルを激しく非難したが、米国の世論はチャーチルの演説に同調的だった。
米軍政は、ソ連と信託統治を行うという国務省の方針に懐疑的であり、反対していた。しかし国務省は、新設された国連の成功のため、民主国家と共産国家の和解と協力、つまり左右合作で国際問題を解決するという「サンフランシスコ幻想」にとりつかれていた。韓半島問題を解決するためソ連と協力するという米政府の姿勢は、国務省などに布陣していた強力な親共勢力ソ連のスパイたちの存在と無関係ではなかった。
南韓全域で信託統治反対の気運が満ちている中、臨時政府樹立を援助する目的で1946年3月20日、ソウルで第1次米ソ共同委員会が開かれた。ソ連外相モロトフはソ連軍代表団に、統一臨時政府の形態は内閣責任制にすること、内閣の構成は南北同数にし、南側の代表の半分は左翼が占めるように指示した。
平壌のソ連占領軍は金日成らを呼び、首相に呂運亨、副首相に朴憲永と金奎植、内務長官・金日成などの内閣名簿まで作成し、ソ連共産党に報告した。このように、ソ連は韓半島の暫定政府を親ソ的なものにするため、細密な準備をして共同委員会に臨んだ。
ソ連はすでに北韓に共産政権を樹立し、「土地改革」まで終えていた。北では曺晩植など右翼勢力が全員逮捕・監禁されていた。ソ連が共同委員会に出てきたのは、北韓の共産単独政府樹立を完了させる時間を稼ぐ目的もあった。
ソ連代表シュチコフ中将は「モスクワ3相会議の決定に反対するすべての政党、社会団体を協議対象から除外しよう」と主張した。また、「韓国が今後ソ連を攻撃する基地にならないよう民主的で独立した国家になることに深い関心を持っている」とも述べた。ソ連の立場の要点は次のとおりだ。
まず、米ソ共同委員会によって樹立された臨時政府には、モスクワ協定を支持する政党と社会団体のみ参加させる(右翼を排除する意味)。第二に、統一韓半島の反ソ的政府は容認できない。第三に、後見制(信託統治)は、韓国民のため必要、というものだった。
一方、米側代表のホッジ中将は声明を通じて、言論、集会、信仰、出版の自由は絶対的なもので、これを確立するのが米国の目標だと宣言した。米国側の立場は、第一に、南北韓全地域で思想の違いを差別せず、全政治勢力に政治的自由を保障すること、第二に、38度線の国境線適用を撤廃し、南北の民生関連行政と経済生活を統合すること、第三に、南北韓の政治勢力に対し、相手地域での政治活動を自由にさせることだった。
双方は基本路線から一歩も譲歩せず、そこに南韓内の左右対立も加わって会談は決裂した。米ソは韓半島政策において互いに妥協不可能な目的を持っていた。ソ連は韓半島に親ソ国家、ないし衛星国家樹立を追求し、米国は親米・親西方の民主国家の樹立を望んだ。両国は韓半島が敵対国によって支配されるか、韓半島に敵対的政府が樹立されるのを阻止せねばならなかった。米ソ共同委員会は何の結論も出せなかった。(つづく) |