康宗憲は、自身が訪北する経緯を説明しながら、「『汎民連』が呼びかけて、毎年八月の光復節には汎民族大会を開催します」と書いている。これこそ典型的なプロパガンダだ。そもそも汎民連を作ったのも動かすのも金日成であり、「金日成の遺訓」なのだ。 すでに指摘したとおり、康宗憲は自分がどういう経緯で「汎民連」海外本部の事務局次長になれたのか、そしてどのように反国家団体である「韓統連」の祖国統一委員長になったのかを、自叙伝の中では一切説明していない。 康宗憲は1989年4月に日本に戻ってから、自分の意志で反国家団体や利敵団体に参加した。だが、彼は確信犯としての自分の行動を自叙伝の中で全然説明していない。彼が工作員として裁かれた嫌疑に対して一切解明しないのと同じだ。もっとも、彼は個人研究所である「韓国問題研究所」を作った経緯はなぜか詳しく書いている。 いずれにせよ、康宗憲が自叙伝の中で記した訪北状況を見てみよう。 彼は1992年8月2日、名古屋からチャーター便で平壌に降り立った。韓国では法や制度のすべてに対して徹底的に抵抗した康宗憲だったが、北に対しては批判意識がまったく見られない。自叙伝から引用する。 「祖国だけが与えることのできる、優しさと厳しさでしょうか。わずか二週間ほどの滞在で、北の祖国を語ることはできません。大会行事への参加が目的ですから、民衆との接触も行事を通じてのものに限られます。『移動の自由がない国に行っても楽しくないだろう』といわれますが、白頭山から開城・板門店まで北の祖国を縦断したことは、私にとって貴重な体験となりました。政治体制への賛否はさて置き、この美しい山河は紛れもなく私の祖国であり、熱い思いで統一を語るこの人々も、かけがえのない同胞だという強い愛着が芽生えたからです。 八月一〇日、金日成競技場で歓迎集会がありました。一〇万人を超えるピョンヤン市民が参加し、たくさんのプラカードが揚げられていました。スローガンはさまざまです。『祖国は一つ』、『国家保安法撤廃』、『林秀卿・文益煥釈放』…。でも、印象深かったのは『平和統一』の四文字でした。二度と戦争をしてはならない、平和を実現したいという、北の民衆の切実な心情が込められていました」(自叙伝144ページ) 康宗憲は北で、当局の厳しい統制を当然のことと受け止め従順に従った。彼は民衆との接触も制限されたのに、民衆の切実な心情を感じたと書き、北への強い愛着を示している。 自由がある韓国では抵抗し、自由がまったく許されない北ではひたすら服従。自由で安全な社会では自由と安全の破壊に挑戦し、独裁体制にはひたすら服従するのが、従北勢力に共通する、奴隷のような姿だ。 康宗憲は北で親戚との面会を申請したそうだ。親戚に会うにも事前に申請しなければならない北の体制に対し、「民衆」の観点や祖国の「民主化」を叫んできた康宗憲から、抵抗感や憤怒はまったく感じられない。 康宗憲は北送された伯母(父の姉)の消息も確認できなかったという。代わりに、面会申請もしなかった遠い親戚が、ニュース報道を見てホテルに会いに来たという。伯母とその家族はニュースを見られなかったのか。人口2000万人ほどの厳しい監視社会なのに、消息がわからないということに納得できるのだろうか。 康宗憲は、ホテルで会った遠い親戚とは信念と現実が一致したらしく、北の社会に貢献しているケースだと褒め、北の現実に適応できない人々について次のように書いている。 「しかし、帰国者のなかには北の現実に適応できず、挫折と反発から不幸な境遇に陥った人も少なくありません。今回、ぜひともお会いしたい人がいました。妻の叔父(義母の弟)です。(中略)『たとえ工事現場の仕事をしても、祖国の土を掘って暮したい』という心情で、幼い子どもをつれて帰国船に乗ったそうです。(中略)しかし、”地上の楽園”ではない祖国の現状に痛く失望したのでしょう。批判的な言動をくり返すうちに、反革命分子として拘束されました。義母がいうには、とても正義感の強い性格だったそうです。当人は収容所に送られ、残された家族は電気もない僻地の農村に追放です」(自叙伝145ページ) 康宗憲の言い方は、生き地獄に適応できなかった北送者の方に責任があるかのように、そして現実への批判意識を持ったのが悪かったというふうに聞こえる。(続く) |