日本の中の「南」と「北」
南労党などの激烈な妨害を乗り越えて、国連監視団の参観の下で行われた制憲議会選挙を通じて1948年8月15日に南に「大韓民国」が建国された。「民団」は8月15日の建国祝典に朴烈団長をはじめ13人を派遣した。
政府から9月8日に「在日同胞唯一の民主団体」として公認を受けた「民団」は10月4日、創立時の名称「在日本朝鮮居留民団」から「在日本大韓民国居留民団」に改称した。
| 大韓民国建国記念式典 | 同じ年の9月9日には北にソ連の傀儡政権として、「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立される。
「朝連」は10月17日、東京の神田共立講堂で「朝鮮民主主義人民共和国創建在日本朝鮮人中央慶祝大会」を開き、北への忠誠を誓った。全国各地から来た500人の「代表」など関東地方の同胞5000人が集まったという。
「ドキュメント 在日本朝鮮人連盟」によると、「慶祝大会」は日本各地で各級組織・団体別に開催された。延べ11万8000人が参加した。大阪では別途に10万人の「慶祝大会」を開いたという。
そして、「朝連」は、「慶祝団」を北に送ろうとしたが、GHQから許可しないや、非合法な形で12月23日に北に「慶祝団」を派遣し、金日成と面会した。
「朝連」は、1949年2月に開かれた第17回中央委員会で、平壌の指示に従った綱領的指針を示し、「共和国に直結しよう!」というスローガンを掲げ、北に従属する姿勢を明確にした。
朝総連のホームページによると、金日成の指示内容は、「北の公民として固く結集」「子女に朝鮮の言葉と文字による民族教育を実施」「諸般権利の守護」「米帝国主義に反対」日本軍国主義の再生に警戒」「祖国統一のために闘う」などだった。
「民族教育」体制整備
解放直後、在日同胞たちは、日本人学校に通わせていた子弟を自主的に同胞たちが設立した国語講習所に入学させた。この時期に大々的に「民族教育」が始まった直接の動機は、当時、日本に残留していた同胞たちの約8割近くが帰国を希望していた。
だが、帰国するうえで、日本語しか知らない子供たちに母国語を教える必要に迫られたのだ。
ところが、帰国後の生活不安やコレラの発生などにより帰国を断念する同胞も急増した。この変化を察知した「朝連」は、国語講習所の整備に取り組んだ。
1946年現在で「朝連」系学校は、全国に学院(小学校)が525校、生徒数は4万2000人といわれた。1946年10月には東京に中学校も開校され、3・1政治学院(東京)や8・15政治学院のような共産主義者幹部養成学校も出現した。
これに対して「民団」「建青」の小学校の生徒数は6297人、中学校は242人、訓練所は289人の計6828人。小学校だけを比較しても「朝連」系の生徒数が「民団」系の6倍以上多い結果となっている。
民団中央の辛容祥常任顧問によると、「当時の学校建設には、お金の余裕のある人たちは、ほとんどが寄付した」と回想する。
しかし、「朝連」が主導権を握った「民族教育」は、その教育目的も共産主義者の養成に置かれていった。「民団」は帰国を前提にした母国語習得が主な目的であったため、「民族教育」において質的、量的に劣勢に置かれた。 |