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2011年08月12日 23:56
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[ 対談 ] 建国記念日か解放記念日か(上)
梁東安(韓国学中央研究院名誉教授)×李春根(韓国経済研究院 外交安保研究室長)

精神面の課題克服がカギ - 主権を完全回復する「光復」はまだ

韓国にとって8月15日が持つ意味とは何か。そしてその意味するところと統一はどのように関係してくるのか。解放から建国、そして今に至るまでを振り返りながら、韓国学中央研究院の梁東安名誉教授と韓国経済研究院・外交安保研究室の李春根室長に語ってもらった。             (司会=洪熒・本紙論説委員)

「解放」は未完の光復

洪 光復節を、植民地からの解放を記念する日と捉える人が多い。一方、光復節を建国節に改称すべきという主張が近年強くなっている。まず、光復の意味を整理しましょう。
 梁 名称を変えなくても、もともと光復節が建国節だ。「光復」は主権の完全な回復、「解放」は主権の回復を伴わない未完の光復を意味する。祝日に関する法律での光復節は1948年8月15日の「独立記念日」を記念するものだ。「国慶日に関する法律」(1949年10月1日施行)は49年6月に提出されたが、大統領の人事に不満を持った国会が法案を9月20日まで止めたため第1回光復節記念式は行われず、第2回は6・25戦争中の臨時首都だった大邱で大統領記念辞があっただけだった。第3回も当時の臨時首都だった釜山で行われた。4大国慶日の名称は、3・1節、憲法制定記念日、独立記念日、開天節とされたが、立法過程で「節」で統一するとして「独立記念日」から「光復節」となった。主に右翼陣営が光復という用語を、左翼は解放という言葉を使った。
 洪 建国と独立記念日が退色したのはなぜか。
 梁 建国初期から左翼が言論界を掌握したためだ。左翼は1948年8月15日ではなく、上海臨時政府樹立日を建国日と主張し、解放日を光復節と呼ぶ。「臨政」側は1946年8月の記念式を解放記念日と呼んだ。一方、法律など分からない(80%近くの非識字者の)国民は、光復が独立を記念するものか解放を記念するものか混同した。1951年、李承晩大統領が「第3回光復節記念辞」を述べた時、新聞も「国慶日に関する法律」のことを知らず、第6回光復節記念辞と報道した。民主党が1960年執権してから建国は言われることすらなくなった。彼らは建国を深刻に考えなかった。「5・16革命」勢力も同じ。「5・16革命史」は、解放政局での右翼陣営に対して非常に批判的観点で叙述し、李承晩政権を強く批判した。
 洪 ご指摘のとおり、「4・19」世代などからは、自分たちの存在を強調するためか李承晩大統領の建国をこき下ろす傾向が見られる。
 梁 新しい権力は自分の正当性を強調するため過去を否定しがちだ。だが、あまり破壊しすぎると国家が虚しい存在になってしまう。李承晩政権への批判を超えて建国までを踏みにじるのは誤りで自己否定だ。
 洪 大勢の人は、大韓民国が韓半島の歴史の中でどれほど特別な存在なのかが分かっていない。韓半島における近代国民国家の誕生の意義とその成功の背景をどう見るべきか。
 李 韓国の民主主義は外部から持ってきたものだ。自由民主主義と市場経済を韓国に移植するのに決定的に寄与した人が初代大統領になった李承晩博士だ。李承晩はキリスト教的米国式政治体制を韓国に植えるとの信念を持ち、その成功を信じて貫いた。6・25戦争も李承晩のような英雄がいたから克服できた。大韓民国は李承晩という傑出した英雄が建設したと言える。
 梁 韓民族は事実上19世紀後半から国を失った。半植民地や植民地の惨めな状態で1世紀をすごし、世界情勢の流れで解放を迎えた。建国当時の民族の生存条件は非常に劣悪で、エリートたちも開明のレベルでなかった。そういう状態で船長の役割をなしたのが李承晩博士だ。先進的体制の導入には米国の助けが絶対的だったが、李博士と先覚者たちは、米本土でもできなかった完全な平等選挙を実施した。ところが、自由民主主義は強い体制ではない。自らを護るのには無能な面があり、そのため戦争準備ができず、6・25戦争の初期に潰滅状態に追い込まれた。国を救ったのは李大統領だ。大韓民国の今日にはそのような迂余曲折があったことを忘れてはならない。

韓国は「不死鳥がつくった」

洪 トルーマン大統領は「6・25南侵」阻止をすぐ決断した。他の人が大統領でもそうしただろうか。
 梁 多分そうしたはずだ。1950年6月まで政府や軍部は、韓半島は戦略的価値がないと言ったが、米政界は1947年のトルーマン・ドクトリン後、政府や党から親ソ分子を粛清する。1949年に中国大陸が共産化すると、米国民と政界の右傾化はさらに進む。共産主義に強硬対応しないと世界が次第に共産化し、米国が孤立するという危機感が沸き起こった。当時の米国の「時代精神」は反共だった。
 李 米ソ冷戦の深刻化で、トルーマンでなくても韓国の共産化を放置しなかったはずだ。休暇中のトルーマンがアチソン国務長官から韓国戦争勃発の報告を受けた時、彼が読んでいた本に「小さな戦争を事前に防げなかったら大きな戦争になるのが歴史の教訓」という内容があったとも伝わる。実際、トルーマン・ドクトリンが適用された最初の舞台は韓国。彼は韓国にとって恩人だ。
 洪 中共軍の侵略で統一も挫折し、韓半島は「6・25戦争」で徹底的に破壊され植民地以前に戻った。韓国人はどん底からどう再起したのか。
 李 韓国の急速な発展を分析した米国の学者は「韓国は不死鳥が作った国」と説明する。1950年代の韓国はガーナと同水準だったが、韓国人は残酷な戦争に生き残り、何にでも挑戦できるよう鍛錬された。1960年の韓国の国民所得は80ドル。北韓は240ドル、フィリピンは800ドルだった。今日の大韓民国は、制度と指導者と国民の力量の結果だ。
 梁 韓国は「6・25戦争」中に絶対統一すべきだった。せめて北緯39線まで上がるべきだった。戦争を起こした共産側を膺懲もせずマッカーサーを解任し、休戦したトルーマンの選択は誤りだ。復興の原動力を3つ挙げたい。まず、「6・25戦争」を契機に初めて現代的軍隊を持ったこと。それにより軍隊の力が国民に移入された。次は、「不死鳥論」のとおり、韓国民が戦争による死から蘇って、もっと強くなった点。3番目は、米国の強力な援助だ。韓米相互防衛条約は李承晩大統領の功労だが、米国の支援なしではだめだった。
 洪 大韓民国建国後、李承晩大統領によって最高の制度が移植された祖国に北の住民が「足で投票」した歴史が3回ある。6・25戦争前後に北から逃れてきた数百万の「越南者」、北送事業で北に人質をとられながらも韓国籍に変えた30万人以上の在日同胞、近年の脱北者だ。このうち、越南者が生まれた背景は。
 梁 南韓の左翼は、戦争中の大挙越南は自発的意思でなく、興南撤収作戦も原爆が落ちるという噂に怯えて南へきたと強弁する。だが、1945年8月20日のソ連軍進駐から始まった共産統治は欺瞞と暴力に満ちていた。ソ連軍は、「朝鮮銀行券」に交換してやると言ってソ連軍票を流通させたが嘘だった。金日成の「北朝鮮人民臨時委員会」は、民主的投票といって公開投票をやり、土地分配では地主から奪った土地の耕作権だけを農民に与えた。人々は民主主義への明確な理解はなかったが、自由への憧れは強かった。
 李 米国のある学者は『世界を支配した理念』という本でこう書いた。全世界65億人の誰もが賛成するものが3つある。市場経済を含む「自由」と「民主主義」と「平和」だ。その中でも一番は「生まれながらの自由」だと。私は北出身の母からなぜ韓国に来たかを聞いた。母は一言で自由だと答えた。北では毎日、スコップを持って出てこいとか命令されたと言った。8人兄弟の末弟と母の2人は、家族から「若いお前たちだけでも自由な所へ行け」と言われて「1・4後退」の時に南にきた。韓国は「自由」で北韓に勝ったのだ。

2011-08-15 2面
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記事: 統一日報社  
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