北送在日同胞の鄭さん(60)と趙さん(55)の夫婦は3月下旬、それぞれ50年と45年ぶりに日本の地を踏んだ。脱北ののち一家で釜山に定住して3年近くになる。娘(31)は釜山で造船所に勤める本国の男性と結婚、初孫も授かった。息子(28)は同じ脱北者の女性と結ばれた。
鄭さんの生まれた大阪を訪れた夫婦の表情は、他の韓国人観光客のそれと何ら変わることはなかった。十数年ぶりに得た一家そろっての平穏な暮らしだが、今も北に残る甥の生活が気になる。
「3日前、甥っ子に電話したが、今の暮らしは(食糧不足の)97、98年の頃と同じくらい厳しい、と言っていた」と顔を曇らせた。ブローカーを通じた送金の連絡のため、中国国境近くに呼び出し、携帯電話で連絡を取り合ったのだ。(北当局の逆探知を避けるため)長話はできないが、苦境を少しでも救ってやりたいという肉親の情がつのった。
鄭さんも岐阜県生まれの趙さんも、金正日や北の体制についての非難は一切口にしなかった。一家の平穏を手にした今、北で共に苦労した親族の暮らしだけが心配でならない。
夫婦は(食糧難の続いた)1996年から98年がもっとも苦しかった、と口を揃える。清津市内で暮らしていた一家はその時期「家財道具を売り、最後には長屋のベニヤ板まではがして売った。食事はしぼりカス、キャベツの芯……」趙さんは思い出すのもいやだといった表情で語った。住居は同じ北送の4家族に割り当てられた「ハーモニカ長屋」だった。
鄭さんは1960年、10歳の時父と兄、姉、妹の5人で「帰国」した。母は拒否した。「今から思えば、ガラス工場の職人だった父は、生活苦と家庭不和で帰国を決めたのだと思う」。父は清津のガラス工場に配属されて働き、94年、独身のまま78歳で亡くなった。「帰国者ではもっとも長生きした」(鄭さん)。
鄭さんは咸鏡北道各地にコメを配送するトラック運転手をしてきた。食糧には不自由せず自分でも「(他の北送者に比べ)恵まれていた」と思っている。しかし「苦難の行軍」の時期、コメの配給はストップし、ガソリンも切れたので、仕事がなくなった。
97年10月、2、3年出稼ぎのつもりで、解放前から中国に住む伯母を頼って脱北した。清津から会寧近くの国境まで150キロメートルを2日かけて歩き通した。伯母の紹介を受け、中国人の農家で1年あまり働くうちに、韓国のKBSラジオ放送で韓国の経済発展を知り韓国入りを決意する。
出稼ぎなら脱北も北当局には大目に見てもらえたが、この決心は万一を考え家族に連絡しなかった。連絡したのは韓国入りして2年後の2003年だった。その間、家族は鄭さんが死亡したものとあきらめていた。
鄭さんはやむなく数万キロメートルの脱出行を経験した。当時、北京の韓国大使館は鄭さんら脱北者を受け入れてくれず、もらった「旅費」で99年2月ベトナムに入る。しかし韓国大使館の対応は同じで「タイに行け」と指示され、いくばくかの旅費をもらえただけだった。
しかしベトナム国内で現地の警察に捕まり、送還の途中雲南省付近で列車を飛び降り逃亡する。北京の韓国カソリック教会でかくまわれた鄭さんはKBSラジオでモンゴル大統領の訪韓を知り、良好な両国関係に望みを託してモンゴル行きを決意した。
2001年4月、ウランバートルの韓国大使館は鄭さんを受け入れ、5月韓国入りを果たした。3年近い歳月が経っていた。脱北者支援団体に助けられ、なけなしのカネをつかったがブローカーにも「助けられた」と感謝している。
釜山でトラック運転手をしながら500万ウォンを蓄えた鄭さんは中国人ブローカーを介して娘を中国に呼び出す。父からの2万人民元を手に娘はいったん清津に戻ったが、保安省に逮捕された。
6カ月の教化所入りは避けられなかったが「娘がまじめに働いていたことと帰国者ということで(咸鏡北)道党が特別に放免してくれた」(趙さん)。しかし返却された人民元の半分はニセ札にすり替えられていた。
趙さんと娘は翌04年、息子は軍隊を除隊した05年脱北した。家族が鄭さんの元にたどりついたのは07年。一家は10年ぶりに再会を果たした。(連載おわり) |