夏休みが明けて東京に戻り、一カ月ばかりすぎたある日、祥一は洋子に手紙を書いた。
帰省中に偶然出会った深沢正恵から、洋子の住所をきいたこと、半年前の鬼胡桃(おにぐるみ)の礼をあらためて述べ、それを握っているおかげで、指の皮をむしる癖がだいぶ直ったこと、それからとりとめもない自分の生活模様などを書いた。
どうしてあのとき、自分は洋子に手紙を書いたのだろう、と後になって祥一はよく考えることがあった。気があったから、とかいうことからでないことは確かだ。気が惹かれていたら、高校生のときにすでに惹かれていたはずだ。
高校のとき、毎日のように教室で目にしていた洋子は、容貌の点でも、性格の点でも、これという特徴のない、ごく普通の女生徒だった。当時洋子が祥一の眼中になかったのは、彼が受験勉強に心を奪われていたせいというより、彼女のその平凡さにむしろ原因があった。
彼の眼中にあったのは、別の女生徒だった。県会議員の娘で、目鼻立ちが整っていて、成績も女生徒の中ではいつも一、二番だった。美しくて、頭のいい女生徒だった。彼女にはちょっと関心をおぼえたけれども、しかし、県会議員の娘だけに、所詮縁のない女生徒だと思っていた。単なる関心にとどまっていて、気を惹かれるというほどにも至らず、魅力のある女生徒だな、と思いつつ遠くから眺めていただけだった。
| |
洋子に心の目を向けるようになったのは、鬼胡桃を贈られたのがきっかけだが、自分を見つめてくれていたことに感謝の念は感じても、ただそれだけで、恋心めいた感情は祥一の中に起こらなかった。気になるひとではあっても、気を惹かれる、と形容するほどのひとではなかった。
そういう洋子に、なぜ自分はあのとき、手紙を書いたのだろう。洋子がそこにいたから、わざわざ鬼胡桃を贈ってくれたひとが同じ東京にいたから、にすぎなかったと、祥一は思う。空虚で退屈な大学生活も相挨(あいま)って、彼をして洋子に手紙を書く行為に走らせたのだと思う。
洋子からはすぐに返事が届いた。祥一の手紙と同じく、上京後の自分の生活模様について書いた、とりとめもない内容のものだったが、行間には、彼が手紙を寄こしてくれたことに対する喜びが、明らかに感じられた。
二、三度手紙のやりとりを交わしたあと、祥一は十月なかばある日曜日、新宿のレストランに洋子を食事に誘った。ひさしぶりに会うためと、鬼胡桃に対する礼の気持もあった。
半年ぶりに洋子に会ったわけだが、彼は、洋子が以前にくらべ、めっきり美しくなっているのに驚かされた。化粧品会社で化粧教育の仕事をしているせいだろうか。無遠慮にいえば、以前は十人並みのうちの中位程度の容貌でしかなかったのが、巧みな化粧によって、いまや十人並みの最上位ぐらいに引き立って見えた。それに、動作物腰も、ずっと女らしくなっていた。
「おひさしぶりです」
レストランで顔を合わせ、微笑を浮かべながらそう挨拶したときの彼女の表情は輝いていた。その表情にも、彼が食事に誘ってくれたことへの喜びが、明らかに感じられた。
彼は、鬼胡桃を三個握った左手を彼女に示し、
「おかげで、ほら、親指の皮がほとんど元通りになりました」
彼が鬼胡桃を手にしているのを見て、彼女の顔はさらに輝いた。
二人の交際は、こうしてはじまったのである。
1984年8月30日4面掲載 |