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2009年10月05日 11:09
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序曲(41) 金鶴泳

 あのときたまたま耳にしたラジオ小説が、自分にとって、文学開眼の契機だったな-雨に打たれている窓先の栗の葉を見つめながら、祥一はその日のことを振り返った。
 その日から、彼はにわかにいろいろな小説を読み出した。カサカサに乾いた心が、その日から蘇生したような気持だった。小説を読んだって、飯は食えない、などと思っていた祥一だったが、しかし、人間には、肉体の飢えと同時に、精神の飢えというものがある。
 明らかに当時の彼は、精神的に飢えていた。その飢えが何に原因するのかもわからず、また何によって充(み)たされるのかもわからないまま、彼は心の砂漠でさ迷い、そしてもがいていた。小説の魅力を知ったことによって、彼はさ迷っていた砂漠の中でオアシスに出会った気がしたものだった。
 試験休みが二十日ほどあったのだが、彼は帰省しなかった。もともと、夏休みに帰省してまだ一カ月ほどしか経っていなかった。秋休みに入ったけれど、こちらでやりたい勉強があるので、冬休みまで帰らない旨、敦賀の家に簡単な葉書を送り、休みのあいだ中、志賀直哉を中心とする小説を手あたり次第に読み漁(あさ)つた。
 かつては小説を読んでいる人間を、詰まらない本に時間を費やしていると思っていた祥一が、こんなことを日記に響きつけるようになっていた。
「十月十×日。曇り。
 今日も終日読書。

 寺田寅彦随筆集を読む。旨い、と思った。志賀直哉の『城の崎にて』『濠り端のたた住ひ』、島木健作の『黒猫』『赤蛙』等の読後感、それに似たところがある。その感じをどう表現したらよいか、自分にはわからないが……。ただ何となく-ちょうど一服の清涼剤を服(の)んだような心持なのである。慰め、やすらぎ、そんなものをおぼえるのである。それが読書の《味》なのかも知れない。
 こんなたぐいの時間の潰し方に、心の慰め、やすらぎをおぼえ、そしていくぶんかの幸福を感じている自分という人間は、小説に興味のない者から見れば、ずいぶん滑稽な、下らない、詰まらない人間に見えるかも知れない。じっさい、自分は、取るに足りぬ、ちっぽけな人間である。ときどきそれを感じて、情けない気持に陥ることがある。
 しかし、そういう人間であるという事実を、自分はどうすることもできない。そしてまた、できなくともいい、とも一方では思っている。これが自分という人間だ。こういう人聞であるところに、自分という人間存在の《証拠》があり、《意義》があり、《価値》があるのだといえないか。
 何はともあれ、自分は自分たらざるを得ない。そして、自分たらざるを得ない、でよいのだと、いまはそう思っている」
 しかし、関心が急激に文学に移るに併行して、祥一は、大学での専門の勉強が、いちだんと苦痛になっていた。自然科学は、自分の内面の憂悶を、少しも解決してくれない。
 どだい、自然科学は、人間の内面を問題にした学問ではない。だから、自然科学に、心の問題の解決を求めるのはお角(かど)違いなのだ。
 進路を誤ったかな、と次第に彼は考えはじめた。だが、小説を読んでいるだけでは、生きて行けないことに変わりはないのである。技術者への道に進む考えを、彼はまだ棄てていなかった。朝鮮人という国籍がこの社会では大きなハンディーになっている以上、やはり何か技術を身につけた方がよい。苦痛を感じつつも、ともかく彼は学業を続けた。

1984年8月15日4面掲載

1984-08-15 4面
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