「国際政治をやりたいと思ってね」
と伊吹は盃を口に運んだ。
「政治か」
「朝鮮問題を専攻したいと思ってるんだ」
突然、伊吹はいった。
<おいおい>祥一は驚いて、心につぶやいた。<俺が朝鮮人だからというんで、急にそんなことを思いついたんじゃあるまいな>
しかし、伊吹はいった。
「これはもう、ずっと前から考えていたことなんだ」
「どうしてまた、朝鮮問題を……」
法学部にせっかく入って、専攻が朝鮮問題では、割が合わないんじゃないか、という気持が祥一にはあった。朝鮮問題は、一般の日本人には、見向きもされていない。それは、朝鮮が、単なる無関心ならまだしも、軽侮の目でしか見られていないことと照応している。
「ちょっとあっちの方面の事情に、興味があるんだ」
伊吹はそうとしか答えなかった。どこまで変わっている学生なんだろう、と祥一は思った。
九時すぎに二人は赤提灯を後にした。飲みつけていない酒を飲んだせいか、伊吹の足はふらつき気味だった。
「大丈夫か」
祥一は、伊吹の肩を支え、声をかけた。
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「大丈夫だよ。ただ、いま俺は、地動説の方を信じているね。俺が動いているんじゃない、地面の方が動いているって感じだな」
少し飲ませすぎちゃったかな、と祥一は思った。二人で七、八本の銚子だから、さほどの酒量でもないはずだが。さわやかな風がさっきより強くなっていた。吹きつけてくるたびに、酒で火照った身体に気持がよかった。星が鈍い光をまばたたかせている。
祥一は、伊吹の肩を支えながらアパートの方に歩いて行った。商店街を外れたところで、車の通らない近道の路地に入って行った。住宅街の細い道である。人通りはまったくなく、あちこちの家の塀の向こうに、くちなし、來竹桃などの花が外灯の光の中で浮いていた。
祥一は、伊吹にいちだんと親密なものを感じていた。
酒のせいだろうか。一緒に酒を飲むと、心の隔てが除(と)れるようである。まだまだ祥一にとって、伊吹は謎めいた人間であるけれども、彼が何かを求めているのがわかった気がした。そして、祥一も、何かを求めている、いわば生きることの意味を探りたいと考えている人聞だった。
「美は世界を救う」
キッチンリバーで伊吹が口にした、ムイシュキン公爵の言葉が甦った。それは、ムイシュキン公爵の言葉であると同時に、伊吹自身の信念でもあるのではないか。
「この下らない世の中、それでも生きている値打ちがあるのは、美があるからだ」
美とはおよそ縁遠い風采(ふうさい)をしている伊吹の口から、そういう言葉が出る。祥一は、伊吹の心にキラリと光るものを感じた。
ふと伊吹が足をとめ、ちょっと身を屈(かが)めながら、脇の石塀に両手を突いた。吐気でも催したのかと思って、
「どうした」
と祥一が伊吹の顔をのぞき込むと、何と、伊吹の両眼から涙が流れていた。
祥一は呆気にとられ、伊吹を眺めた。何の涙かわからぬまま、微かに震えている伊吹の肩をしばらく見つめているうちに、やがてわけもなく祥一の中にも熱いものがこみ上げてきた。
1984年8月8日4面掲載 |