コックがカウンター越しに、シチュー、野菜サラダ、ライスを差し出してきた。
「お待ち遠」
相変わらず威勢のいい声である。
伊吹と祥一は、残りのビールを飲み干し、しばらく黙ったまま飯を食べた。若い男の客が二人入ってきて、祥一と椅子一つ隔てた隣りに、やはりカウンターに向かって坐った。天井に大きな扇風機がとりつけてあり、音も響かせずゆるやかに回転している。
「ここにはよく来るのかい」
しばらく沈黙が続いたあと、祥一がきいた。
「週に二、三回はね」
「河野屋よりいいかい」
「あそこの食い物は、ちょっと飽き飽きしている」
伊吹はいったが、しかしこういう店は、むしろ学生時代の志賀直哉あたりが来るところではないか、と祥一は思った。伊吹は志賀直哉には興味がないようだが、太宰治やラスコーリニコフなんかは、こういうところには来ないだろうと思う。
「気取っていて、キザったらしくて、いけねえや」
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太宰だったらそういいそうな気がする。しかし、太宰やラスコーリニコフに共鳴を感じているらしい伊吹は、ちょくちょくここで飯を食うという。
祥一は、例によって不可解なものを感じながら横目に伊吹を見やった。ナイフとフォークの手さばきは相変わらず器用で、フォークの背にきちんと飯を乗せて食べている。フォークの背に飯を乗せて食べるのが、祥一は苦手だった。仕方がないから、肉を適当な大きさに切ったあとは、フォークを右手に持ち替えて食べる。このようにマナーを心得て飯を食う人間が、どうしてこんなみすぼらしい風采(ふうさい)をしているのだろう、という疑問がまた祥一の胸をかすめる。
さらに二人の客が入ってきた。こんどは中年の男女連れが、後ろのテーブルに坐った。外がめっきり暗くなっている。外灯に照らされた道を、勤め帰りの人たちがひっきりなしに通りがかっていた。
伊吹と祥一は、三十分ほどでリバーを出た。あたりはめつきり暗くなっているのに、遠くの空だけがまだやけに明るい。自分にとって、特にやりきれないのは、空のこういう眺めだ、と祥一は思う。いまは夏だからまだいい。秋や冬の茜(あかね)色に燃える遠くの空は、美しさを通り越して、何か知れぬ辛い感情を彼の中に喚(よ)び起こす。やりきれないとは、つまり、どこから来るとも知れぬその辛さの感情のことだ。自分を文学に近づけたのは、そして留年に踏み切らせたのは、一言でいえば、その感情のせいのような気がする。
「おい、『マロニエ』でコーヒーを飲んで行かないか」
真っ直ぐアパートに帰ろうとする伊吹に祥一は声をかけた。マロニエは駅の反対側にある喫茶店である。静かで、落ち着いていて、クラシック音楽を聴かせてくれる。このままアパートに帰っても、今夜は何もできそうになかった。リバーでのビールが効いていて、心が宙に浮いている感じである。
「行こうか」
伊吹は応じた。遠くを見つめている彼の表情は、彼も宙ぶらりんな気持になっていることを示しているようだった。アパートに帰っても、ひとりでレコードでも聴くしかない。同じ聴くなら、マロニエで聴いている方がずっと気が紛れる。はるかに容易に<瞬間の連続化>が図れる-伊吹の顔に祥一は彼の内心の空(うつ)うさを感じた。
1984年7月27日4面掲載 |