「中国産やアメリカ産の紫陽花(あじさい)を、どういうところから手に入れたんですか」
「知り合いに紫陽花について研究している人がおりましてね、その人から株を分けていただいたんです。紫陽花は挿し木が簡単ですし、これという手入れも必要がないものですから、不精な私にはちょうどよいですわ」
奥さんは微笑を浮かべた。顔つきといい、話しぶりや物腰といい、気品の感じられる奥さんだった。模様の地味な、黒味がかった臙脂(えんじ)色の和服を身につけていた。
家主である夫は画家で、近くにアトリエがあり、毎日そこに通っているということだった。子供は三人いて、長男はある私立大学の理学部で助手をしており、次男は保険会社に勤めているが、二人ともまだ独身で、母屋に一緒に住んでいるという。アパートの隣りに住んでいるのがいちばん齢上の娘だと奥さんはいった。
そうか、あの人が娘さんなのか、と祥一はアパートを見分にきた日のことを思い出した。母屋の玄関先で、T大学厚生課の紹介で、部屋を拝見させて貰いたいと思って来ました、と祥一がいうと、奥さんは、裏のアパートに祥一を導いて行ったのだが、そのとき三十少しすぎぐらいの女性が、アパートの手前隣りの平家の前で、赤ん坊を抱きながら立っていた。奥さんは、通りすがりに女性が抱いている赤ん坊をちょっとあやしたのだが、その女性はたいへんな美人で、胸もたいへんに大きく、祥一は目のやり場に困ったものだった。平家のドアの脇にはある新聞社名を刷り込んだ男名の名刺がはりつけてあり、女性はその人の奥さんとみえた。
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そうか、あの人が娘さんなのか、と祥一は娘さんの美貌と胸の膨らみを思い返した。娘さん夫婦はアパートの管理人をも兼ねているらしかった。
奥さんは空(あ)いている和室と洋間の二部屋を紹介してくれたのだが、祥一は、二階の西はずれの、洋間になっているG号室が気に入った。窓のすぐ前が中庭の木立になっていたからである。部屋代も五千円で、七畳ほどの広さにしては安かった。マットレスを据えたベッドも備えられていた。
祥一はG号室を借りることにした。その段になってから、彼は、自分が「金」という名の韓国人である旨を告げ、「下宿によっては、韓国人に部屋を貸すのを厭がるところがあるようですが、韓国人でも構いませんか」と率直にきいたのだが、「そんなことは関係ありませんわ。外国から留学でいらっしゃった方が、何人かここで下宿なさったことが、ございます」
と奥さんは、国籍についてはいっこうに意に介していない様子だった。
「韓国人といっても、福井県の敦賀で生まれ育った二世ですけど」
「そうですが、敦賀のご出身でいらっしゃいますか」
祥一は、奥さんは民族的偏見のたぐいは持ち合せていないらしいと知って安心した。
「金さんのご実家は、敦賀でどんなお仕事をなさっていらっしゃるんですか」
ベランダに坐り、庭の紫陽花から目を戻して奥さんはたずねた。このときも、祥一はちょっと返答に逡巡(しゅんじゅん)した。パチンコ屋は賎業である、と一般の人は思っている、と彼には感じられたからである。
「遊技場をやっています」
彼はいった。
「遊技場といいますと?」
奥さんは重ねてたずねた。
第3202号 1984年7月17日(火曜日) 4面掲載 |