工学部には、機械工学科、電気工学科、精密工学科、航空学科、等々、いくつもの学科があるが、製図と数学を必要としないのは合成化学科ぐらいのものだった。製図はまったくない。数学は多少は必要とされるにしても、他の学科にくらべればはるかに少ないはずだ。要は、ある薬品とある薬品を混ぜ合せて、新しい物質を合成するのが専門である。製図と数学が苦手な自分には、工学部の中では最も好都合な学科に思えた。そう考えて祥一は合成化学科を選んだのである。花形の学科であるとかないとか、そんなことは関係なかった。
「合成化学科には、製図と数学がないんです。そしてぼくは製図と数学が苦手なもんだから、それで合成化学科に進んだにすぎないんですよ」
祥一は飯を食べ終えて茶を飲んでいる岡田にいった。なぜ留年することにしたかについては、祥一自身にも説明しがたいものがあり、話せばながくなりそうなので、それについては触れなかった。
「ぼくも数学は高校のときからまるっきり駄目でした」
岡田は相変わらず微笑を浮かべていった。伊吹は笑いもせず、最後の飯を口に掻(か)き込んでいた。
「ぼくは碁に凝っていましてね、それに夢中になっているもんだから、そのために今年も留年する羽目になってしまいました」
岡田はいった。性格が明るいとか、素直だとかいう以上に、無邪気なものさえその表情には感じられた。
「碁をしてるんですか」と祥一はいった。「ぼくは何も出来ません。碁も、将棋も、それから麻雀も。競馬競輪のたぐいもだめです」
岡田はまた陽気な笑い声を立てて、
「ぼくは碁か、せいぜい将棋です。競馬競輪はもちろん、麻雀も知りません」
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そういってから、
「そうすると、金さんの趣味は何ですか」
「それが、趣味というほどのものが何もないんですよ。せいぜい小説を読むぐらいのもので……」
「小説?」飯を食べ終った伊吹が口を挟んだ。「どんな小説を読んでいるんですか」
にわかに興味をそそられたような顔になって伊吹はきいた。
「やはり日本の小説が多いですね」
「日本の小説の、たとえばどんなものを」
伊吹は重ねてきいた。祥一はあらたまって伊吹を見返した。法学部の学生にもかかわらず、彼も小説に興味を持っているらしく思えた。
祥一は何人かの日本人作家の名を挙げ、
「そんなあたりを読んでいます」
「森鴎外の文章はいいですね。『渋江抽斎』なんかは俺も二回読みました」
祥一が挙げた数人の作家の中に、森鴎外が含まれていた。
「伊吹さんはどういうものを読んでいるんですか」
祥一がたずねると、
「ここんところ、ドストエフスキーばっかりです」
と、伊吹は窓の外の通りに目をやった。通りというより、もっと遠いところを見つめている目付きである。
伊吹と岡田とは、引越してきてすぐに、こうして知り合った。それだけで祥一には、伊吹と岡田の人となりが大体呑み込めたような気がした。一緒に飯を食うと、大体その人間の人柄がわかるものだ--引越してきた最初の日のそのときのことを思い返すとき、よく祥一はそう考える。
第3199号 1984年7月12日(木曜日) 4面掲載 |