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2008年08月24日 00:00
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忘れられた人々-在樺太同胞の帰還実現を 3
"日本人は帰り同胞は残された"

 在樺太同胞のうち、帰国をもっとも切望している1世の人たちは、50~80歳代の人々で、ずでに人生のフチにたっている。彼らの帰還を実現させる問題は、もう一刻の猶予もできないのである。すでに明らかなように、ソ運政府が在樺太同胞の帰還を容認している現在、帰還実現は日本政府の態度如何にかかっている。10月初旬に予定されている日・ソ首脳会談で、日本政府は、わが民族に対するいまひとつの負債を返上し、自らの道義を正すためにも、帰還実現の道をつくらねばならない。日本政府は、樺太同胞に対して一貫してとってきた、差別・放置政策を、ただちに止揚すべきであろう。

「樺太抑留帰還韓国人会に協力する妻の会」の会報
日本人妻もつ同胞のみ帰れた

 くり返しいって、在樺太同胞は日帝によって強制連行された人々であり、いまに到るもなお人為的に取り残された人々である。第2次世界大戦終結前後、樺太在住の日本人は約50万人であり同胞は約4万3千人であった。当時、日本人もわが同胞も、故国に帰りたいとの心情において、なんの変わりもなかったはずである。
 ところがわが同胞だけが、置き去りにされてしまった。
 日本人は

、ソ速軍が樺太全島を占領するまでの間、8万8千人が引き揚げたが、その中に含まれていた同胞は、わずか1千5百人程度だったという。「米ソ引揚協定」(1946年6月、函館引揚援護局開設、同年12月5日から樺太引揚げ開始。50年、朝鮮動乱勃発によって中止)によって31万1452人が引き揚げを完了した。が、同協定が日本人およびかつて「日本人」であった「朝鮮人」、台湾人、樺太原住民をも対象としないものでありながら、われわれの同胞だけを取り残し、同胞で帰還できたのは、日本人妻をもつごく一部であった。
 その後、中断されていた引き揚げ業務が、「日ソ平和宣言
6年10月19日)に基づいて再開され、シベリヤ旧日本軍捕虜とともに、樺太の残留日本人も引き揚げることになった。しかし、そこからもわが同胞たちは除外され、幸運にも帰還できたのは、日本人妻をもつ同胞家庭、474世帯2200人にすぎなかった。
 このように、日本人とわが同胞とは、引き揚げにおいても厳然と差別された。帰還できた同胞にしても、日本人の妻を迎えていなかったならば、いまでも樺太に取り残されていたかも知れないのだ。


引き揚げ直後から運動を始める

 引き揚げ当時の模様を、「樺太抑留帰還韓国人会」の朴魯学会長は、こう語ってくれた。
 私たちは、ソ連軍が樺太に上陸した当時、彼らによってわれわれは解放されるのだと信じて疑わなかった。しかし、実際は何も変わらなかった。46年ソ連政府の命令によって、在樺太同胞の人数を調べたところ、4万3千人がいた。
 私は幸運にも日本人妻をもっていたため引き揚げることができ、1958年1月14日、舞鶴港に上陸した。だが私たちはそこでも差別された。日本人引き揚げ者には、当時の金で1万円の準備金があてがわれたが、われわれ同胞には、宿泊費、旅費はもとより、弁当さえでなかった。
 朴会長の婦人、堀江和子さんも「当時、なにがつらかったかといえば、私と子供たちの弁当をお父さんと分けあって食べたことです。いくらなんでもひどいと思いました」と当時の状況をふり返った。
 でも「自分たちはまだよい、むこうにいる人が・・・」という思いが、いつも頭を離れなかったという。
 朴会長らが日本に上陸したとき封筒と切手と便箋がそれぞれに配られ、故郷に、帰還したとの手紙を書くようにいわれたという。しかし朴会長らは、それで故郷に手紙を書いたのではなぐ、在樺太同胞を帰還させてほしい、との陳情書を当時の駐日韓国代表部に送った。これが、朴会長らの運動の始まりであった。

「知られざる運動」から脱皮へ

舞鶴港に上陸したその日、日本当局が撮った写真(引き揚げ寮での朴魯学氏一家、58年1月14日)
 現在の「樺太抑留帰還韓国人会」が結成(当初は「第2次大戦時韓国人犠牲者連合会」、会員2千十余名)されたのは、上陸した翌月の2月6日。以来15年間、たゆまず運動をつづけてきた。
 しかし、樺太から引き揚げた同胞たちにとって、生活のかてを得るのは困難であった。生活に追われ、運動に思うように力が投入できなかった。会発足当初、会費は250円であったが、その会費すらが払えずに、泣きながら脱会を申し出る同胞が相次いだ。そんなことから会費制度をとりやめ、会の中心メンバーは、夜間土工になってわずかながらの運動資金を捻出してきた。
 生活費、運動資金不足もさることながら、会のメンバーたちの日本の状況に対するうとさもまた、運動の進展を遅々としたものにしてきたという。今日まで、各方面に出した陳情書だけでも、50回はかるく越すそうである。
 しかし、日本政府や駐日韓国大使館、あるいは国連などへの文書か、口頭による陳情だけで、日本社会、在日韓国人社会、国際社会世論への働きかけが、ほとんどなかった。
 会のメンバーたちは、己の運動を「知られざる運動」にしてきた責任は、自分たち自身にもあった、として反省しており、これからは世論に積極的に働きかけるつもりだという。
 「樺太抑留帰還韓国人会に協力する妻の会」(世話人代表・三原令)が結成されたのは今年の7月。「韓国人会」にはそれまで、機関紙ひとつなかったが、「妻の会」の積極的な活動によって「妻」という機関紙が発行されるようになり、現在まで2号が誕生している。同紙は発行部数3千、そのうち1500部が会員に、その他も全国各地の韓国人、日本人に送られている。
 在樺太同胞の帰還を実現するための運動は、運動としてはようやく始まるところだ、といっても過言ではない。

第599号 1973年9月21日(金曜日) 3面掲載

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