川瀬に導かれて行ったのは、店から一分そこそこのところにある喫茶店だった。川瀬は、店のいちばん奥の、あたりに客のいない席に祥一と母を導いた。
「純子さんが家出をしたんですか?」
席に着くと川瀬はまだ信じられないという顔つきでいった。
「部屋の中のものがおおがたなくなっているんです。家出したとしか考えられないんです」
三日前の、純子に対する父の仕打ちのことは省いて祥一はいった。
「川瀬さんがこの前純子に会ったのはいつですか?」
「三日前です。純子さんと一緒にお茶を飲みました」
悪びれもせずに川瀬はいった。どうやら素直な青年のようだった。職業柄のせいか、物腰も言葉づかいも丁寧である。
「純子の行き先について、心当りはありませんかね」
「さあ、そこまでは……」
川瀬は首をかしげながらいった。
「それにしても、どうして家出なんかを……」
川瀬も解しかねているようだった。クラシック喫茶で、シューベルトの「アルペジョーネ。ソナタ」が店内に流れていた。祥一の好きな曲である。祥一の耳はついそっちの方に行きがちだった。
「大体、あんたと純子はどういうつき合いだったん?」
母が険しい声でいった。
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「どういうつき合いといっても……」川瀬はちょっと考えてから、「ただの茶飲み友達です」
「ただそれだけ?」
母が詰問するような口調でいった。川瀬は母を見据え、「はい、それだけの関係です」
祥一はもはや川瀬を問い詰める気にもなれなかった。川瀬は正直な青年らしい。そして正直なことをいっているらしい。いくら問い詰めても、川瀬からは何も出てこないだろう。祥一は煙草を吸いながら、むしろアルペジョーネ・ソナタの方に耳を傾けていた。
三十分たらずで彼と母は川瀬と別れた。
「もし純子さんから連絡がありましたら、私の方でお宅に電話します」
とさえ川瀬はいった。
川瀬は本当に純子の行き先について知らないらしかった。彼の方でこんどの事態に驚いているふうで、かつ純子のことを心配している様子だった。
数日間、祥一は母と共に純子の行方を捜した。美浜町や三方(みかた)町や、さらに今庄(いまじょう)町に住んでいる純子の高校時代の友達を訪ねたりした。しかしいずれも純子の行き先については心当りがなかった。
母に引きずられるような形で、祥一も一緒に純子を捜し歩いたものの、祥一は当初から純子の捜索には不熱心だった。父の気持が変わらない以上、たとえ純子を捜し当てて家に連れ戻したとしても、それは何の解決にもならない。同じ悲劇が繰り返されるだけだ、と祥一は思っていた。
だが、その後一カ月たらずで川瀬も店をやめ、行方をくらました。純子から連絡があったに違いなかった。そして、いまは純子と一緒にどこかで生活しているに違いなかった。
祥一の父はそういう父であり、彼の家庭はそういう家庭だった。しかも、彼は、そういう家庭の長男である。たとえ洋子と結婚したとしても、それが彼女にとって幸福だとは思えない。そんな事情もあって、君と結婚はできないよ、と祥一は洋子にいったのである。
第3192号 1984年7月3日(火曜日) 4面掲載 |