1998年11月。冷たい海風が吹きつける玄界灘(大韓海峡)を、一隻の船が静かに進んでいた。船に積まれていたのは、韓国・南原城で採火された「聖火」。それは単なる火種ではない。400年前、慶長の役で日本へ連行された朝鮮陶工たちの記憶と、決して消えることのなかった故郷への思いを宿した炎だった。
その年、金大中大統領と小渕恵三首相による「21世紀に向けた新たな韓日パートナーシップ共同宣言」を受け、薩摩焼400周年記念式典が開かれた。式典では、十五代沈壽官氏が南原から運ばれた聖火を鹿児島・沈壽官窯の登り窯へ移す採火式を執り行った。捕虜として連行された悲劇の歴史は、400年という時を経て、和解と共生、そして文化交流を象徴する炎として新たな命を吹き込まれたのである。
鹿児島の地で発展し、世界にその名を広めた薩摩焼と沈壽官家の400年の歩み。それは一つの陶芸家一族の歴史にとどまらない。韓日両国が歩んできた対立と和解、そして文化の融合を映し出す歴史そのものと言える。(ソウル=李民晧)
悲劇が生んだ世界的な芸術
1598年。朝鮮から連れてこられた陶工たちは、異国・薩摩(現在の鹿児島県)の苗代川の浜辺に立ち、海の向こうにある故郷へ思いをはせた。言葉も習慣も異なる土地で、彼らが唯一頼ることのできたものは、土と炎だった。
朝鮮から持ち込んだ技術と美意識を礎に、現地の土を研究し、新たな陶磁文化を築き上げていく。その原点となったのが「火計り」である。土や原料には朝鮮のものを使い、火だけを薩摩のものとしたことから、「薩摩焼」の名が付けられた。薩摩焼400年の原点ともいえるこの茶碗には、故郷を思い続けた陶工たちの祈りと哀しみが込められていた。
戦争捕虜として日本へ渡ったとはいえ、陶工たちが迫害され続けたわけではない。卓越した技術を高く評価した薩摩藩は彼らを保護し、生活を支えた。その結果、陶工たちは集団で定住し、朝鮮の文化や風俗を色濃く残しながら暮らすことができた。
朝鮮では日用品だった素朴な茶碗も、茶の湯文化が栄えた日本では高く評価され、「一国一城にも匹敵する価値がある」とまで称される美術品となった。
江戸から明治へと時代が移ると、薩摩焼は国内にとどまらず世界へと羽ばたく。その礎を築いたのが十二代沈壽官である。薩摩焼特有の精巧な透かし彫りと華麗な金彩を融合させた作品は、1873年のウィーン万国博覧会をはじめ各国の博覧会で絶賛され、西洋で広がったジャポニスムを象徴する工芸品の一つとして世界的な評価を確立した。
1891年、日本を訪れたロシア皇太子ニコライ(後のニコライ二世)へ日本政府が贈った最高級の献上品も、十二代沈壽官が手掛けた大壺だった。現在、この作品はロシア・エルミタージュ美術館に収蔵され、19世紀日本陶芸を代表する名品として高く評価されている。戦争捕虜の子孫が生み出した陶磁器が、やがて世界の王侯貴族や美術界から賞賛を受ける──。そこには、歴史の皮肉とも呼ぶべき壮大な物語が刻まれている。
境界を生きる苦悩と「トランスナショナル」
しかし、その栄光の陰で、朝鮮系日本人として生きる苦悩は絶えることがなかった。帝国主義と軍国主義が色濃くなり始めた20世紀初頭。後の十四代沈壽官は、中学校入学初日、朝鮮名を名乗ったことを理由に上級生から集団暴行を受けた。
血まみれで帰宅した息子を見た父・十三代は、何も語らず、服についた土を静かに払い落とした。厳格だった父が門の前で息子を待っていたのには理由があった。父自身もまた、少年時代に同じ差別と暴力を経験していたからである。父は息子に静かに言い聞かせた。
「理不尽な偏見や差別から逃げるな。真正面から向き合え」
その後、沈壽官家は作家・司馬遼太郎と深い交流を育む。司馬は小説『故郷忘じがたく候』で、一族の歩みを描き、多くの読者に伝えた。
韓国で初上映されたドキュメンタリー映画『ちゃわんやのはなし―400年の旅人』でも、アイデンティティーに揺れた十五代沈壽官氏の青年時代が描かれている。自分は日本人なのか、それとも朝鮮人なのか。その問いに苦しむ沈氏へ、司馬遼太郎は一通の手紙を送った。
「民族や国家は小さなものです。文化を共有する一つの形にすぎません。あなたに必要なのは『トランスナショナル(Trance-national)』という考え方です。民族や国家という枠組みを越え、一人の人間として生きてください」
この言葉は、十五代沈壽官氏の人生を大きく変えた。被害者という意識に縛られることなく、韓国と日本、二つの文化を受け継ぎ、新たな物を生み出す陶芸家として、自らの宿命を受け入れる転機となったのである。
韓国の土を踏み、薩摩の炎を継ぐ
陶芸の原点を学ぶため、十五代沈壽官氏は韓国へ渡った。修業先に選んだのは、驪(ヨ)州の伝統的な甕(かめ)工房だった。その修業は想像を絶する厳しさだった。氷点下20度にもな
る寒さの中、毎朝3時半に起き、25キロもの土を何度も投げつけながら練り続ける。一日の終わりには、茶碗を持つ力すら残らず、両手で器を抱えるようにして食事を取る日もあったという。
だが、その歳月を通じて、韓国陶芸の精神と土、炎、そして韓民族ならではの素朴で力強い造形美を体得した。日本への帰国後は父の跡を継ぎ、沈壽官窯を継承。代々受け継
がれてきた薩摩焼の技に、韓国で培った力強い感性を融合させ、新たな作風を切り開いていった。
1280度の炎が結ぶ友好の架け橋
1998年晩秋。十五代が南原から運んだ聖火は、代々受け継がれてきた沈壽官窯の登り窯へ移された。窯の温度が1200度を超え、最高温度の1280度に達すると、陶工は炎の色や窯の音に耳を澄ませ、自然と静かに向き合う。
極限の炎の中で、朝鮮の陶芸精神と薩摩の炎は一つになり、新たな作品が生み出されていく。壬辰倭乱という悲劇が残した歴史は、400年の歳月を経て、今では世界の人々を魅了する文化遺産へと姿を変えた。
薩摩焼は、単なる古陶磁ではない。それは、韓日両国が過去の傷を乗り越え、互いを理解し、新たな未来を築いていけることを示す、生きた文化の象徴である。国籍や民族という境界を越え、美を追い求め続けた沈壽官家400年の歩み。その窯に宿る炎は今もなお、韓日両国を結ぶ文化の架け橋として、静かに燃え続けている。 |