山田孝雄の功罪と政治的取引
我が国の古代文字研究が迷走してしまった原因は多々あるが、その一つに山田孝雄(一八七五~一九五八)の変節がある。昭和二十八年、戦前の国体論の権威であった氏が発表した『所謂神代文字の論』は、日本の古代史研究における多様性を根底から破壊する「学術的断罪」であった。
山田がその主たる論拠としたのは、橋本進吉らの提唱した「上代特殊仮名遣」に基づき、五母音体系に依拠する神代文字を「時代錯誤な偽作」と断じる音韻論的整合性である。
しかし、この論理は現代的な視点から見れば、極めて危うい前提の上に築かれた「結論ありき」の独断に過ぎない。第一に、万葉仮名における漢字の使い分けは、必ずしも実際の発音(音価)が八母音であったことを証左するものでなく、書記官の流派や祭祀対象、あるいは呪術的意図による「表記の棲み分け」だった可能性を等しく含んでいる。第二に、江戸時代の編纂者が古代文字を紹介する際に、当時の標準的知性であった「五十音図」という枠組みに再構成することは、情報の伝達において必然的な翻訳作業である。山田は、これら「文字の多層的性格」を意図的に等閑視し、文字を単なる「音を写す一対一の道具」と狭義に再定義することで、その枠に収まらない古代の痕跡をすべて「非科学」の烙印で葬り去ったのである。
論理破綻を孕んだこの論文が、発表と同年に文化功労者選出という異例の栄誉を山田にもたらした事実は、これが純粋な学術的探究ではなく、GHQの要請に呼応した「日本の神秘性の去勢」という政治的取引であったことを強く示唆している。この論文は、公職追放を受けていた山田が復帰するための一つの手段であったともいえるだろう。
「封印された古代」の再構築
戦後八十年という歳月を経て、我々は山田が強いた「音韻論の呪縛」から脱し、物理的証拠としての考古学的事象に回帰すべき時に立っている。吉田信啓(一九三六~二〇一六)らが日本各地の巨石や岩面から発見したペトログラフ(岩刻文字)は、山田が依拠した「文献学」の机上の論理を根底から揺さぶる実在の反証である。
これらの刻印は、現在の日本語の文法や発音に従属する「言語文字」以前の、世界共通の神性記号(イデオグラム)としての性格を色濃く残しており、シュメール文字やフェニキア文字との形状的一致は、日本列島が孤立した島国ではなく、高度な海洋ネットワークの結節点であった可能性を物語っている。
山田によって「捏造」とされた神代文字の多くは、こうした岩刻文字という太古の「記憶の種」が、後世の知識人によって再発見・体系化された末端の姿であったと解釈するのが妥当であろう。
文字を単なる言語の影と見なす従来の言語学の傲慢を排し、岩石に刻まれたエネルギーとしての「サイン」に真摯に向き合う時、封殺されてきた日本の真の古層が露わとなる。戦後八十年という節目は、政治的意図によって歪められた実証主義の壁を崩し、文献、音韻、そして地質学的遺構を有機的に結合させることで、封印された古代日本を「国際的かつ霊的な文明」として再定義するための、新たな探究の幕開けとならなければならない。
以上、「漢字を巡る遥かなる旅」と題して連載を続けてきた。漢字のルーツは北方民族の神権政治に伴う「神代文字」であった。それを「周」の統治のために世俗化したものが現在の漢字である。
漢字は、中国でできたものでも中国で発展したものでもない。漢字文化圏として周辺諸国が発展させてきたのである。戦後レジームからの脱却とは政治だけのものではない。文化においても新しい時代を告げなければならない。今日に生きる我々の使命はまことに大きい。(おわり)
文献学的な山田孝雄(上)と対峙して新たに出された研究成果の意義は大きい(下)
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