干支の漢字と動物は無関係
新年を迎えるときに毎年話題になるものが「今年の干支」であろう。干支とは、十干と十二支を組み合わせた数詞で六十を周期とする。
十干は、五行と陰陽で構成されており、五行の「木(き)・火(ひ)・土(つち)・金(かね)・水(みず)」と、陰陽の「兄(え)・弟(と)」の組み合わせでできている。この「兄弟(えと)」が「干支(えと)」の語源である。大和言葉でいえば、「きのえ(木の兄)・甲」「きのと(木の弟)・乙」「ひのえ(火の兄)・丙」「ひのと(火の弟)・丁」というような形となる。「甲・乙・丙・丁・・・」と数詞にも使われる。
十二支の方は、時計の文字盤をイメージすれば良い。十二で一周である。「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」で、それぞれ音訓二通りの読み方がある。「子」から始まって、文字盤の十二時のところが「午」となる。「正午」というのはこれに由来する。方角でいうと、「午」は南をあらわす。「子」は北をあらわす。「子午線」とは「北南に引かれた線」のことである。
この十二支の文字は、元来順序を表すものであって、動物とは一切関係ない。いつの日かこの十二支に十二の動物が振り分けられ、それがそのまま訓読みとなった。だから、「ね・うし・とら・・・」と読むようになったのである。
この十干と十二支を組み合わせが六十通りとなるのだ。六十歳の還暦の祝いは一周巡ったことに感謝するのである。干支の最初は「甲子(きのえ・ね)」だ。大正十三(一九二四)年の干支は「甲子」であった。だからその年にオープンした阪神球場を甲子園と呼ぶのである。
丙午の迷信を超えて天を貫く時
今年の干支は丙午(ひのえうま)である。我が国では、この年に生まれた女性は気性が激しく男性の命を縮めるという迷信があった。実際に丙午の年には出世率が下がったこともあった。
この迷信流布のきっかけは、江戸時代に流行した「八百屋お七」の逸話であった。お七の家は、天和二(一六六八)年の天和の大火で焼け出され、親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介に会えると考え、その一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火にとどまったが、お七は放火の罪で火あぶりにされた。そのお七が丙午生まれであったというのだ。
その逸話を、井原西鶴が『好色五人女』の第四『恋草からげし八百屋物語』とした。画期的な文学作品に仕上がったのである。物語は大ヒット。歌舞伎や浄瑠璃で多数取り上げられて全国に広まった。丙午伝説はこうして出来上がったのである。
丙午は、干支の組み合わせでは四十三番目となる。丙午の「丙」は五行陰陽でいうと「火の陽」。「午」も「火の陽」。同じ気が重なることを易学では「比和」というが、丙午は「火の陽」の「比和」である。「火」は、火のような灼熱の性質をあらわす。比和になると、その気は盛んになる。結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。それが今年の易学的な運勢である。
「午」の漢字は杵を上下させた象形で、気が交差することを示したものだ。高市総理は、年頭の挨拶で、丙午の今年を、「エネルギー(陽気)が一段はっきりする分水嶺になるかもしれない」と語った。杵が天を貫くように迷信を壊し、大いに活躍することに期待したい。(つづく)
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水間 一太朗(みずま いちたろう)
アートプロデューサーとして、欧米各国、南米各国、モンゴル、マレーシア、台湾、中国、韓国、北韓等で美術展企画を担当。美術雑誌に連載多数。神社年鑑編集長。神道の成り立ちと東北アジア美術史に詳しい。 |