持統天皇は西暦703年1月13日死去した。「壬申の乱」で勝利して夫の大海人が天皇(第40代天武天皇)になるよう補佐し、息子の草壁を皇太子にした持統の宿願は皇統(天武天皇系)の永続だった。それで草壁の競争者たち、特に天智天皇系を徹底的に牽制した。持統はその執念の実現を万葉集にかけた。持統万葉の完成こそ持統の最大の業績、人類史的偉業と言えよう。例をあげてみよう。万葉集1巻に収録された84首のうち28首(35~62番歌)が息子の草壁皇子のためのものだ。これほど多くの作品が一人のため作られたのは空前絶後のことだ。それを可能にしたのは、持統天皇の力と息子を亡くした母親の哀切さだった。
彼女は、万葉の力を以って愛する息子の魂を庇護することができ、傷ついた自分の心も慰められた。
持統天皇は、天をも動かすほどの怪力を持つ万葉の歌を、皇室はもちろん多様な階層に広く歌われるようにした。持統天皇によって持統万葉は皇室の専有物から、皇室の外へと広がっていった。持統万葉は春の花園のように満開した。筆者は持統天皇を「万葉の女帝」と呼びたい。
彼女は自分の死を予見したようだ。亡くなる5年前の697年、孫の文武天皇に皇位を譲位した。草壁皇子の一人息子の孫だった。そして大宝2年12月22日未明に息を引き取った。持統天皇が死ぬや、彼女のための涙歌が作られた。それらを解読した結果は衝撃的な内容だった。見かけにはこの上ない悲しみの歌だが、その裏には呪いを隠していた。一体どうしてこんなことが起こり得るのか。実状を見せてあげよう。
まず64番歌だ。
持統天皇が葦原のほとりを行く。
鴨がしぶとく並んで飛んでいく。
霜の降る寒い冬、日が暮れて夜になった。
従順な倭国の人々はあなたを覚えるだろう。
作者は志貴皇子だ。持統天皇は天智天皇の娘で、志貴皇子は天智天皇の息子だ。つまり、志貴皇子は、持統天皇の異母弟だ。後日のことだが、志貴皇子は光仁天皇の父だ。この光仁天皇の直系の子孫が現在の皇室にまで万世一系につながる。
志貴皇子の代は、天智天皇の皇統が絶たれた時期だった。壬申の乱を起こした天武天皇と持統天皇によって皇位を簒奪されていた。
作品の中の「倭人」という二文字を単純に「倭国人」として解読しないでほしい。それは初歩的な解釈だ。固有名詞法をもって解いてこそ本当の意味が分かる。「従順な人」と解読しなければならない。固有名詞法は万葉集の解釈において最高レベルの解読法だ。固有名詞法を用いると、最後の一節の「従順な倭国の人々はあなたを覚えるだろう」は、「倭人たちは従順な人々であるため、皇位を簒奪した天武天皇と持統天皇に順従したが、あなた方が乱を起こして皇統を簒奪した事実を覚える」という意味に解釈される。
従順な倭人たちはあなたを忘れない(持統天皇の死と呪詛の歌) <続く> |