米国で国権守護と先進学問に尽力
「米国に留学し、大学の学位を得て帰国する日本人は毎年400人を超える。彼らは帰国後、その能力に応じて首相や大臣になり、学校の校長にもなる。こうして日本は東洋の新興国となった。他国の臣下となった身として、これほど羨ましいことがあるだろうか」
20世紀初頭、国権喪失の危機に立たされた大韓帝国の青年・李承晩は、近代化に成功した新興国・日本を羨望の眼差しで見ていた。清日戦争以降、加速した日本の侵略主義には強く反発しつつも、教育による国の再興だけは高く評価していた。李承晩は、近代日本の発展は教育と学問の力によるものと確信していた。日本は若い人材を欧米へ留学させ、先進的な教育を受けさせた上で、自国の発展を牽引する指導層として育成していた。新時代を導く指導者には、先進教育を通じた知性の修養が不可欠だと信じていたのである。
大韓帝国の開化知識人の中には英国を模範とする者もいたが、李承晩は米国の政治と教育を最も理想として掲げた。獄中にあった時期にも、彼は米国の教育制度に関心を寄せていた。初代駐米日本公使・森有礼が米国連邦教育局から入手した教育制度の資料を筆写し、米国の学制、教育法、主要大学の情報までを丹念に研究した。李承晩はその書物を読み込み、米国留学への憧れを募らせた。
1904年、ついにその機会が訪れた。高宗による恩赦で5年7カ月に及ぶ投獄生活を終えた李承晩は、大韓帝国の国権を守るための外交活動を目的に米国へ派遣された。翌年夏までに彼は、米国国務長官やセオドア・ルーズベルト大統領ら政界要人に対し、韓国の独立を請願した。米国政府は支援を約束しなかったが、青年・李承晩にとって貴重な外交経験となった。当時の活動は国内でも報じられ、『皇城新聞』は彼を「韓国人民の代表者、独立主権の守護者、愛国烈性の青年志士」と紹介している。
外交努力は実を結ばなかったが、祖国の未来を担うための米国留学の夢だけは諦めなかった。宣教師らの支援を受け、05年2月、ジョージ・ワシントン大学へ編入した李承晩は学業に専念した。留学の目的は個人の出世ではなく、祖国の独立と国民の啓蒙にあったため、可能な限り短期間で博士号を取得し、祖国へ戻ることを目指した。焦るあまり、学士課程に編入してわずか1学期後に博士課程入学を申請したこともあった。
07年に学士号を取得した後、ハーバード大学で修士課程を修了。10年7月にプリンストン大学で博士号を授与されるまで、計5年半。これは当時としては異例の速さであり、米国の名門大学で学士・修士・博士の三学位を最短で取得した記録的な成果であった。専攻は主に政治・外交・国際法であり、特に欧米の政治外交史と国際法の研究に没頭した。その成果をもとに博士論文「米国の影響下にある中立」を執筆し、12年、プリンストン大学出版部から刊行された。
学業の道のりは決して平坦ではなかった。李承晩は学問だけに専念できる状況ではなかった。留学期間中、米国各地で200回を超える講演を行い、韓国独立の必要性を訴え続けたからだ。講演による謝礼金で生活を支える苦しい日々でもあった。さらに彼を最も苦しめたのは、米国で幼い息子を亡くした悲劇だった。李承晩は、両親の縁談で結婚した朴氏との間に生まれた息子・泰山を米国へ呼び寄せたが、不幸にも7歳の時にジフテリアで亡くなった。李承晩はわが子を胸に埋め、悲しみを抱えたまま祖国独立のため学業を続けた。
こうして、初の韓国人による米国政治学博士が誕生した。この頃から彼は「李博士」と呼ばれるようになり、この呼称は大統領就任後も国民に親しまれ、知性派指導者としての印象を刻みつけた。困難の連続だったが、李承晩は米国留学を通じて新時代を導く指導者にふさわしい知的基盤を身につけたのである。後に米国大統領となるプリンストン大学学長のウッドロウ・ウィルソンは、当時の李承晩をこう評している。
「彼は徹底した愛国心と熱い同胞愛に満ちた青年であり、いずれ韓国の独立を取り戻す人物となるだろう」 |