後世、沸流百済の歴史が抹殺され、倭が日本列島であるとの認識が定着するにつれ、倭=沸流百済が倭としてのみ認識されるようになり、それに伴って、倭が韓地を支配していたという結果だけが残ることになったと思われる。とんでもない錯覚というほかなく、史実が忘却の彼方に押しやられてしまったとしか言いようがない。
何回でも強調しておきたいのだが、偽史を定着させたのが、平安時代の「日本紀講筵と竟宴」という宮廷行事の学習と思われるのだ。そうした学習では、神功の新羅征伐とか任那復興などが自慢げに語られ、民族意識を高揚したと思われる。そうしたことによって、『日本書紀』の小説のような記述が史実と見なされ、歴史となって定着したと考えられる。
〔用明紀〕
用明に百済琳聖太子のイメージ
用明は、熱心な仏教信仰派であるかのごとく論述されているが、実際は仏法を信じたとあるものの、神道を尊んだとあるように、熱心な崇仏派ではなかったことを明らかにした。それは、蘇我氏とは一定の距離を保っていたことを意味するものだ。
蘇我氏は、自分の娘の王子がいずれも、大王に即位する近距離の位置にあるという地位を確保し、当時の朝廷に絶大な影響力があったと思われる。それは、韓地の温祚百済の意を体得した蘇我氏の勝利ともいうべきもので、物部氏や中臣氏など倭=沸流百済の有力氏族は滅亡というに近い状態に陥ったのだ。
欽明の王子である穴穂部王子も、敏達正妃の穴穂部間人姫の実弟であり、大王位を窺える近い位置にあったと思われる。その証拠に、穴穂部王子の実弟である泊瀬部王子(崇峻)が大王に即位しているからだ。穴穂部王子は、旧来の倭=沸流百済の有力氏族をバックにしたがゆえに、韓地の温祚百済をバックにした新興の蘇我氏に敗北し、消え去った。
用明は在位2年で死去したということだが、用明の伝承が周防国にあることは、驚きというほかない。その周防国に、琳聖太子の伝承が色濃く残っていることもさらに驚きの事態なのだ。両者は、その周防国で結びつく可能性があるからだ。
大胆な推量になって恐縮だが、琳聖太子は、兄の阿佐太子(聖徳太子)に会うために都(大和)に上ったのだが、そこで大王に就任するよう懇請され、用明という号で即位したと思われる。そして、聖徳太子が勝利したことにより、周防国の地に定住するようになったと考えられる。 |