敏達朝の時には播磨国の明石浦までやって来たと記しているが、「異敵の来襲」という文言は「韓半島からの渡来」という語に置き換えてもいいと思われる。倭地はすべからく、韓地から渡来してきた人々によって開拓された国であり、倭国が韓半島に進出するという逆流現象はとうていありえないことだ。
後世、沸流百済の歴史が抹殺され、倭が日本列島であるとの認識が定着するにつれ、倭=沸流百済が倭としてのみ認識されるようになり、それに伴って、倭が韓地を支配していたという結果だけが残ることになった。とんでもない錯誤というほかなく、史実が忘却の彼方に押しやられてしまったというほかない。
そうした偽史を定着させたのが、平安時代の「日本紀講筵と竟宴」という宮廷行事の学習と思われるのだ。そうした学習では、神功の新羅征伐とか任那復興などが自慢げに語られ、民族意識を高揚したと思われる。そうしたことによって、『日本書紀』の小説のような記述が史実と見なされ、歴史となって定着したと考えられるのだ。
日本の古代史は疑問だらけで、日本人の間でも万世一系をそのまま信じる人は、ほとんどいないであろうと指摘されている。たとえば、南北朝時代の内乱は、足利尊氏が京都で擁立した光明天皇の北朝と、京都を脱出した後醍醐天皇の南朝との対立とするのが通説だが、実際は、百済系の南朝と新羅系の北朝との争いと見られている。また、明治天皇は伊藤博文の一党に殺害された孝明天皇の子でなく、山口県柳井市の一農夫の子で、本名は大室寅之介であるといい、彼は伊藤博文らに引き出されて天皇になったという説もある。
以上のことは、これまで縷々述べてきた内容と重複していると思うが容赦願いたい。発見も多くあると思っているので、強調する意味もあり、敢えて記しておいた。
〔敏達紀〕
敏達は蘇我氏と対立していた
敏達は排仏派の物部氏や中臣氏と近い存在で〈敏達紀〉冒頭に「敏達は仏法を信じず、文章や史学を好んだ」とあることからも明らかだ。敏達は実際には、蘇我氏と対立した関係にあったと思われる。
敏達は、任那復興のために日羅を召還したということだが、日羅はもともと仏教的聖人であり、聖徳太子と関わり合いが深かったことを明らかにした。だから敏達が、仏教人の日羅を召還したということは考えられないことであり、実際の召喚者は蘇我氏だったと思われるのだ。 |