歴史を推進する実体が明らかになれば、歴史はしごく簡単な人間社会の営みなのだ。”韓隠し”を徹底し、その実体を曖昧にして魑魅魍魎の世界を創り上げているのは、まさしく日本史学界の体質と言える。
日本の古代史は疑問だらけで、日本人の間でも万世一系をそのまま信じる人は、今はほとんどいないであろうと指摘されている。たとえば、南北朝時代の内乱は、足利尊氏が京都で擁立した光明天皇の北朝と、京都を脱出した後醍醐天皇の南朝との対立とするのが通説だが、実際は百済系の南朝と新羅系の北朝との争いと見られているのだ。また、明治天皇は伊藤博文の一党に暗殺されたとの説がある孝明天皇の子でなく、山口県柳井市の一農夫の子で、本名は大室寅之介であるといい、伊藤博文らに引き出されて天皇になったという説もある。
日本の民俗・文化の面を通観すると、韓日両国に共通する面が多々あると指摘されている。元旦の賀礼の習わしが韓半島の風習と同じであるといい、神功が髪を水に浸して所願の成就の与否を占ったことも、韓半島での風習と同じだと指摘されている。
大阪府高石市の高石神社には応神朝に渡来し、千字文と論語をもたらした王仁博士が祀られているし、縫製の始祖とされる工女らも渡来してきている。埼玉県の高麗神社には、高句麗から渡来した若光王が祀られている。奈良法隆寺の百済観音像も韓半島からもたらされたものだと見られている。
さらに古い時代には、イタケル(五十猛)が韓地から苗木を持ち込んで倭地に植林し、イタケルの父とされるスサノオ(素戔鳴)もまた、韓地のソシモリ(曾尸茂梨)から渡来してきたとされる。
欽明朝には、医博士の王有陵陀や採薬師の藩量豊、五経博士の王柳貴、易博士の王道良、暦博士の王〓孫、楽人の三斤、仏師の鞍作鳥などが渡来してきているし、さらには仏像や経論を百済の怒〓斯致契が伝授し、仏教の発展をもたらした。
そのように、日本文化は韓半島からもたらされたものと断定しても過言ではなく、そのことは、韓地からの渡来人が倭国をつくったといってもいいことになる。
〔欽明紀〕
即位年も没年も「年若干」の不可思議
欽明が百済聖王(聖明王)である可能性があると指摘した。その理由として、『三国史記〈百済本紀〉』には聖王と記され、明王とも記されているが、『日本書紀』では聖明王と記され、時に明王と記されている。 |