白熊と玄武ミサイルの開発からわかる通り、少数のエリートたちの献身による国科研中心の武器体系開発は、朴正煕大統領の死後、「栗谷事業」の推進主体が青瓦台から国防部に変わり、防衛産業の地位と重要度にも変化が生じた。
先進国のグローバル防産業企業は、世界防衛産業が深刻な不況に陥るや輸出市場の開拓にもっと努力するようになる。米国から圧迫されていた全斗煥政府によって、先進国(主に米国)の先端武器体系の本格導入が始まるようになった。この国外導入によって、軍事力建設において国内研究開発がこれ以上最高の目標ではなくなったのだ。
つまり、以前は防衛産業を通じての国内開発が武器体系確保のための主な手段だったのが、今は国内開発と国外導入を包括する「獲得」という概念が登場したのだ。1980年代には、自体開発中心から国外導入(獲得)の比重が高まった。防衛産業が、目的から手段へと概念が変容した。防衛産業の初期には中小企業の役割が大きかったのが、軍事力建設のための予算規模が大きくなるや、防衛産業での大企業の比重と役割が拡大し始めた。
戦力増強規模が大きくなり、先端技術力が不足すると、海外技術導入生産は、武器獲得のための重要な代案となった。海外装備を技術導入生産する費用が、直接購入価格より20%ほど高くても、技術導入生産方式を可能とし国内生産を奨励する政策が採択された。外国装備を国内で生産する場合、国内企業に及ぼす技術波及効果や産業関連効果など、経済的利点が大きかった。
500MDヘリコプター、K55自走砲、F16戦闘機などの技術を導入、生産した代表的な事業だった。このような大型の技術導入生産は、大企業が防衛産業に積極的に参加するきっかけとなった。大企業と中小企業との間の葛藤構造が生じた。結局、政府が交通整理をするようになった。それで、防衛産業保護・育成の次元で専門化・系列化制度が決まった。
第2次栗谷事業は全斗煥政府の82~86年までの5年間に推進された。第2次栗谷事業の戦力増強目標は、第1次栗谷事業で完了できなかった対北戦力の補充に重点が置かれ、「防衛戦力補完および戦力の質的向上」と設定、早期警報体制構築、戦争持続能力拡張、有・無形戦力の均衡発展を通しての自主的軍事力建設を推進した。
主要武器の国産化を通じ、先端国防科学技術と防衛産業の基盤を構築するのはもちろん、技術集約型の戦力構造への改善、各軍や戦場の機能別戦力の均衡的発展による統合戦闘力の最大化達成に重点を置いた。第1次栗谷事業は目標指向型の5カ年固定計画で推進されたが、第2次栗谷事業では83年、予算改革作業と国防企画管理制度が定着し連動計画に変更された。連動計画は、事業の実施中に発生する変化要因を毎年修正・補完しこれを適時に反映することで、計画の一貫性と効率性、柔軟性を高めることができた。
陸軍はこの期間に歩兵師団、機械化歩兵師団、動員師団、郷土師団など19の師団級部隊を創設した。北韓のAN2機などの浸透に備えて特戦旅団を創設した。機甲戦力の強化のため、M47戦車、M48戦車の性能改良、韓国型K1戦車の開発、韓国型K200装甲車の開発を通じて、北韓側に比べて量的に劣勢だった機甲戦力を補強した。対戦車ミサイルの導入、K55自走砲の国内生産、多連装ロケットの戦力化も推進した。K136A1多連装ロケットは、韓国が開発した武器としては初めてジェーンズ年鑑(79年80号)に登載された。
(つづく) |