武烈の暴虐記事は彼一人の暴虐ではなく、複数の場所での複数の人物による暴虐譚がまとめて記述されているようである。
日本の国風文化は一般に10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であると見られているが、そのはしりは渡来人の子孫の改名の時期にあったと思われる。つまり、渡来人が日本文化の生成に大きく貢献したということだ。
ところで、韓語系ヤマト古語と称される言語はどういう言葉であったのかよくわからないが、韓語が転訛して別の発音のようになった言葉を意味しているものと思われる。さようであれば、もともと日本語というものは存在せず、韓語が転訛し、派生して日本語が生まれたものと推察される。それは、日本列島が韓地からの渡来人によって開拓され、そうした渡来人が使用した韓語が、徐々に転訛して日本語と称されるものになっていったことを意味すると考えている。
〔継体紀〕
継体にアマノヒボコ族の息吹
武烈の記事は、王朝断絶を示唆するものだと解釈されているが『記・紀』は応神の5世孫という系譜をもつ男大迹(継体)が越前あるいは近江から迎えられて即位したと記されている。
そして、樟葉や山城の地を転々として、大和入りするまでに約20年を要したのだが、それは当時の大和朝廷に継体に反対する勢力があったためと見られている。そのため、継体は応神王を継承する正統な王位継承者であったのか。あるいは、クーデターによる新王朝の樹立であったのか。疑問が呈されているのだ。
雄略没後以後、朝廷は混乱の時代で、顕宗・仁賢・武烈=百済武寧王であるとしたら、武烈の暴虐譚は武烈のものではなく、倭国朝廷の混乱を極大化したものと考えられると考証した。一人の人物の暴虐ではなく、複数の場所での複数の人物による暴虐譚がまとめて記述されたものだと思われるのだ。
全国統一の巨大な大和朝廷は〝幻〟
応神以降続いた王統は、武烈を最後に血筋が途絶えたと見られているのだが、後継者である第27代継体は、『記・紀』によれば、応神の5世孫とされる。血統による正統と権威が絶対視された時代にあって、違う血統のものが大王に即位できるはずがなく、継体の系譜は作られたものとの疑義が呈されている。
その点に関しては、隅田八幡神社伝世の人物画像鏡の銘文も絡んで、断定しがたいが、継体の継の”つぐ”は血縁関係は必ずしも要求されないとして、継体が渡来人だという説もある。しかし、継体が応神の5世孫という系譜を採用するほうが事理に叶うと思われる。 |