29番歌は鸕野讚良が父の天智天皇を慕う内容があふれる歌だった。鸕野讚良が天智天皇を祀った場所は畝傍山の橿原だった。畝傍山も大和三山の一つだ。今の山科陵であろう。
「水辺」と「百礒城」は近江国と臨時安置所をいう。天智天皇は667年に近江に遷都した。671年に亡くなり、正式な葬儀の前の672年に壬申の乱が起きた。娘の鸕野讚良が壬申の乱の後、正式な葬儀を行ったのだ。
この歌の作者に注目してほしい。柿本人麻呂である。持統天皇時代に活躍した万葉歌人の中の最高峰の一人だ。現代の万葉集の研究家たちは柿本人麻呂を「歌皇」とまで評価している。
作品に出る百礒城は、近江国にあった天智天皇の遺骸の臨時安置所だった陵の名前と考える。「百の岩の城を築いた方」という意味だ。
天皇の墓を「城」や「宮」と称していた。福岡に造成された斉明天皇の臨時墓は「磐瀨宮」、近江国に作られた天智天皇の仮墓は「百礒城」と言っていた。百礒城と呼んだのは、天智天皇が韓半島に百済の救援軍を送り敗北した後、唐と新羅の攻撃に備えて数多くの城を築いたからだろうと思われる。
31番歌だ。
左散難弥乃志
我能
大和 太與 杼
六友昔人二亦母相目八毛
傍にいる人を突き放すと兵乱が起きる事実は、あちこちの本に記録されている。
強情と言われるほど仲睦まじくしなければならない。
大いに和合しなければならない。
大いに共にしなければならない。
6人の友に2人を合わせると頭が8人になるのだ。
万葉集の母 鸕野讚良 うねり継がれる皇統(万葉集28・29・31・32番歌)
(続く) |