日本史学界では軽視あるいは無視されているアマノヒボコ王朝の影響があることを明らかにしたが、顕宗・仁賢・武烈が同一人物であれば、顕宗同様、仁賢も武烈もアマノヒボコ王朝と深い関係があったことになる。
しかし、それは母系の面からいえることであって、父系は沸流百済系の血を引く大王であったと思われる。であれば、顕宗・仁賢王朝をクーデターによる履中王家の再興とする見方もなされているのだが、それは、あくまでも内紛による氏族らの覇権闘争であったと思われる。
仁賢・顕宗の逃避地である丹後・赤石は銅器文化で繋がり、石上は銅器文化の聖地であったことが指摘されているが、それは新羅系山陰王朝の拠点でもあったということだ。その新羅系山陰王朝の核心勢力がアマノヒボコ王朝であったのだが、仁賢・顕宗兄弟の母系はアマノヒボコ族であることも明らかにした。
”韓(から)隠し”を指弾し、日本古代史の真実を追い求めることを試みているが、『神皇正統記』に「昔日本は三韓と同種なりといふ事のありし彼書を、桓武の御代に焼き捨てられしなり」という所業以来、”韓隠し”が常態化したと思われる。そのような”韓隠し”が極に達したのは、明治時代からの近代で、皇国史観を煽りたてた曲学阿世の輩どもは、韓地からの文明移植を断ち切って、脱亜入欧の世界に入りこみ、得意然として韓地の歴史を否定した。
とんでもない悪業と断罪せざるをえないのだが、それに対する抗議は大きな声にはなっていない。未来志向が強調されて、”一銭の得にもならない”というような視点で過去を顧みようとしないのだ。
日本の歴史を、騎馬民族による征服王朝と見る史観は、大きな説得力があるにも関わらず、”当然の法理”であるがごとくの日本列島自生論を展開して、征服王朝説をかき消している。それが大きな流れとなって、その流れに水をさせば、ツマハジキにされるというのが日本史学界の本流のように感じられる。
唐国、辛国などの用語は韓国の異表記だと指摘されている。つまり”韓隠し”の用語だと見られているのだ。”大陸”という用語も”韓隠し”に利用されている。
例えば、古墳から遺物が発掘された場合など新羅の影響があるとされる場合でも、”大陸”からの影響があったなどとされる。大陸といえば中国を暗喩し、新羅の場合は半島という表記になるのが明治時代以降の普通の表記だからだ。
平安時代に「日本紀講筵と竟宴」という宮廷行事の学習が設けられ、全国の官僚が出席して『日本書紀』の講義を受けたということだが、そこで、『日本書紀』の解釈が定立したと考えられる。韓地からの影響を軽視、あるいは無視し、日本自生の事績にするための解釈があれこれ試みられたと思われる。
そして時代を経るごとに『日本書紀』に多く見える韓地との関係を、主従を逆転させてあれやこれやと朝貢のような形にし、日本の文明・文化も中国の影響を受けて発達したように曲解しているように感じる。遣唐使のことは大々的に紹介するのだが、遣新羅使については黙殺している。
それを”飛び越し”と言わずしてなんというのか。商売の世界では”飛び越し”はご法度のはずだが、日本史学界はその”飛び越し”を得意ワザとしているようだ。 |