〝幻の大和朝廷〟を造り出した虚構の古代史
『日本書紀』は、”朝鮮書紀”といってもいいほど韓半島との関係記事が随所に見えるのだが、そうした記事は、ほとんどが無視されるような形になっている。韓地を抜きにしての日本の古代史は成り立たないはずなのに、屁理屈を駆使してあれやこれや論述する歴史学は、まさに創作の歴史学だ。
日本の古代史は、韓半島との関係を隠蔽、あるいは軽視しているがゆえに説得力の乏しい論考となり、わけのわからない古代史となっている。明治政府は天皇家を権威付けるために、天皇家を秘密のベールに包んでしまったと指摘されているが、明治政府と曲学阿世の輩からなる日本史学界は、”韓隠し”を徹底したがゆえに、人物や氏族の出自が秘密のベールに包まれ、魑魅魍魎の古代史となったと考えられる。
それに、当然の法理のごとく”幻の大和朝廷”を造り出し、真史とはかけ離れた虚構の古代史を創り上げてしまった。その正史とされる『日本書紀』は、小説といわずしてなんといえようか。
『日本書紀』や『古事記』は「帝紀」や「旧辞」という史料を元に記されたものとされるが、6世紀中頃、つまり仁賢・武烈の時代の頃に完成していたとされる「帝紀」と「旧辞」は、諸家による潤色が加えられ改変されていたので、『日本書紀』や『古事記』の記述がそのまま史実とは認められないということだ。
それは、津田左右吉の研究により津田史学と称されるもので、戦後の日本史学界の通説だということだ。その津田史学の学徒らは、欠史8代などと称し、いとも簡単にそれらの歴史を抹殺してしまい、なぜ欠史8代を正史である『日本書紀』に載せたかなどを研究せず、その穴を埋めようとせず、研究の俎上に載せようとしない。
ということになれば、欠史8代などの穴は開いたままであり、そうした空白があっても意に介しないような姿勢で曖昧な論述を繰り返している。矛盾に突き当たると神話にしてしまうのが、日本史学界の伝統的な姿勢といってもいい。
〝飛び越し〟は日本史学界の得意ワザ
”韓隠し”を指弾し、日本古代史の真実を追い求めているが、『日本書紀』によれば、島王(武寧王)は北九州の加唐島で生まれた。男子であるため母子と共にすぐ本国(百済)に送り返されたと記されている。だが、実際はその逆で、男子だったら倭地で生育するようにという意味だったと指摘されている。
仁賢の実像が武寧王であるという驚天動地の考証を明らかにしたが、当時の倭地は百済王族が本国の争乱を避けて渡来し、成長していく場であったことを意味し、それは倭が沸流百済そのものであったことを暗喩している。 |