米国防部は韓国の防衛産業を米国の防衛産業業界の系列化工場で発展させ、韓国防衛産業の範囲を防御武器に限定すれば、国務部の意図と衝突しないとの見解を表明した。米防衛産業界の系列化にするというのは、韓国の独自の開発力を抑制するという思惑だ。
これにより1972年、クライド・ハーディンを団長とする技術支援団を韓国国防科学研究所に派遣、技術支援を始めた。これは韓国軍の初期兵器開発に大きく寄与した。朴大統領は72年4月、105ミリの曲射砲の開発を指示した。だが、野砲の生産は、簡単な構造の歩兵用小火器などとは次元の違う専門的な技術と装備が必要とした。
国防科学研究所は、技術顧問団長のハーディンに曲射砲の技術資料を要請した。ハーディンは大笑いしながら、曲射砲の技術資料の分量は部屋一つを埋めるほどで、検討には1年かかると答えた。駐韓米国大使館は韓国の曲射砲の開発を阻止するよう指示したが、国防科学研究所は105ミリ曲射砲をリバースエンジニアリングで11カ月後に製作した。
73年6月25日、朴正煕大統領の参観のもと、国産火器の示範射撃が行われた。この時、105ミリ曲射砲の復坐装置から漏油が見つかった。
試射会が終わった後、駐韓米国大使館側は韓国が製作した曲射砲が米軍の規格と合わない点を列挙した。呉源哲経済2首席は、設計図がないため合わないのは当然、是が非でも野砲を国産化すると対応した。
韓国側の強い国産化意志を確認した米国側は、韓国に技術資料を提供する問題を協議した。劉載興国防長官とリチャード・スティルウェル(Richard Stilwell)駐韓米国司令官が韓・米間の「軍兵器、装備及び物資に関する技術資料交換付録」に署名(73年9月6日)した。
この署名の直後、ワシントンで開催(9月12~13日)された韓米年例安保協議会で、ウィリアム・クレメンツ米国防次官は「韓国の防衛所要を充足し得る産業基盤を発展させるため、米国の産業技術と韓国の産業を結び付け、活用する共同労力の必要性を勧告し、この分野に適切な援助を提供するよう努力する」と表明した。韓国が単独で武器を開発せず、米国と共同開発することが望ましいとのことだった。
これにより韓国は74年から105ミリ曲射砲をはじめ、各種兵器に関するTDP(技術資料のパッケージ、Technical Data Package)を米国から提供されることになった。韓国の武器の開発・生産速度はこのTDPによって加速した。もちろん、TDPを消化、生産するには様々な難関と犠牲も払った。
いずれにせよ105ミリ曲射砲の開発で習得した精密加工技術や生産工程などは、民需用精密工作機械製造に直ちに適用され、精密機械工業の発達に多大な貢献をした。韓国で防衛技術の民需への転換が容易にできたのは、防衛産業を国家機関のみが専担せず、最初から民需企業を参加させたためだ。一方、ハーディンチームは韓国に多くの技術資料を提供し過ぎたという理由で74年、解体され撤収した。
韓国型軽装甲車の開発は防衛産業がさらに発展するきっかけとなった。国産軽装甲車CM6614は、起亜自動車の小型貨物車のエンジンとトランスミッションの上にイタリアのフィアット6614をモデルに作った装甲車体を乗せた。戦闘用ではなく、後方での対ゲリラー作戦用だったが、装甲素材や溶接技術で発展を遂げた。
(つづく) |