弥生人とは、韓地から渡来した天孫族と呼ばれる人種であり、現在の日本人は、その弥生人を源流としている。しかし、日本史学界は当然の法理のごとく列島自生論を展開し、日本人の源流を縄文人に求めているが、とんでもない錯誤といわねばならない。
民俗学と称して日本人の源流に東南アジアの影響が見られるとか、なんだかんだの屁理屈のような論述を展開して、読む人をまどわしている。それらの影響は韓人が受けていたものであり、その韓人が倭地に渡来したがゆえに倭人と称され、もとの韓人と区別されて、あたかも倭人、つまり日本人が受けているように錯覚して論述されているのだ。とんでもない悪意の〝韓隠し〟と言わなければならない。倭人というのは最初に韓地から渡来した人たちという説もあることを肝に銘じなければならない。
日本史学界は、日本の文明・文化が中国の影響を受けて発達したかのように記述しているのだが、中国の文化人らが渡来したという記述は少なく、圧倒的に新羅、百済、高句麗、すなわち韓地からの渡来人だ。植林しかり、織物しかり、仏教しかり。そうであれば、日本の文明・文化は韓地からの渡来人がもたらしたもののはずだ。古代史の定説では『記・紀』、すなわち『古事記』と『日本書紀』に基づくもので、壬申の乱に勝利した天武大王(在位:673年~686年)の勅により、『古事記』は太安万侶が編纂して712(和銅5)年に、『日本書紀』は舎人親王らの撰で720(養老4)年に完成した。
平安時代には「日本紀講筵と竟宴」という宮廷行事の学習会が設けられ、全国の官僚が出席して『日本書紀』の講義を受け、終わると土産を受け取って帰ったという。以来、『日本書紀』が正史とされ、『古事記』は顧みられなかったということだが、江戸時代になって、本居宣長が『古事記伝』を著し、『古事記』も陽の目を見るようになったということだ。明治時代になると、『記・紀』が絶対視され、怪談まがいの歴史も史実とされ、強要されるようになったのは記憶に新しい。そうした歴史教育も昔話になっているようだが、なかでも最大の罪悪が”韓隠し”といってよかろう。
〝韓隠し〟を徹底した『日本書紀』ではあるが、韓地からの渡来が随所に見える。それらを朝貢のような形で記述している。実際は技術を教えたりして、その地の文化向上に貢献しているのに、どうみても辻褄の合わない記述をしているのだ。韓を漢、唐などに書き換えて”韓隠し”をしているというのはよく指摘され、韓国を飛び越して中国に結び付けるということは、その文明・文化が中国の影響を受けているという前提のため、中国からの影響といっても、結果的には誤りではないのかもしれない。
しかし、商売の世界では飛び越しはご法度であり、浪速の商売人はそれを美風としたはずだ。紳士淑女の集まりである学界で、飛び越しが堂々と許されている現実をどう解釈すればいいのか。そのことは、『日本書紀』が史実を記録した史書ではなく、日本の歴史がこうあってほしいと願ったフィクション、歴史小説であることを暗喩するものだ。 |