板門店での斧蛮行後、平壌側は準戦時態勢を発令し、彼らの既存の戦争計画による大規模な住民疎開を行った。北側は「唯一思想体系」のため、全住民を「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」に分類、管理してきた。敵対階層は当然、平時から厳しく隔離、監視する。そのため、準戦時状態での隔離・監視の強化は「動揺階層」に集中した。
この「動揺階層」に対する措置により北韓の学問の中核だった金日成総合大学の質が決定的に落ちる契機となった。金日成総合大学総長を歴任し、1997年に韓国へ帰順した黄長燁・元労働党秘書の証言によれば、70年代に金日成総合大学の教授陣の半分は南韓から越北した学者たちで、彼らの学問的力量は高かったにもかかわらず、金正日が戦争危機を口実に南韓出身者を追放したため、学問的水準が低下したという。
斧蛮行は北側に深いトラウマを残した。平壌駐在英国大使(2006年2月から08年7月まで)を務めたジョン・エバラードの著書『英国外交官、平壌で送った900日』(原題:Only Beautiful、Please)によれば、北側は斧蛮行のとき米軍将校殺害に使用した斧を博物館に展示しているという。北側は斧蛮行40年後の2016年8月18日「朝鮮人民軍板門店代表部」団弁護人談話を通じて、事件を「南朝鮮を永久に強占し、侵略戦争の口実を作るため米帝が計画的に起こした事件」であったと強弁、「米国の先制挑発」と宣伝している。
板門店での斧蛮行事件は、韓国が自主国防に一層邁進するようにした。事実、韓国経済の「圧縮成長」は、実は切迫する「安保危機」に対応する「重化学工業化」を決断、急いだ結果としてもたらされたといえる。効率的な防衛産業建設が圧縮成長を促進したかたちだ。元々朴正煕大統領の経済開発・先進化への大戦略は、「先経済開発・後自主国防」だった。
ところが北側の挑発など安保環境の激変は、この大戦略の軌道修正を強要した。既述の通り、朴正煕大統領の自主国防への戦略と措置は、韓国に加えられた安保危機に対する自衛・自救の対応でもあった。
1968年1月の朴大統領暗殺失敗(1・21事態)により「戦いながら建設し、建設しながら戦う」へと、経済開発と安保を並行する路線転換が不可避になった。米国が「1・21事態」のときも、韓国軍への油類供給を制限するなど、韓国軍の対北報復を抑制する姿勢に出たためだ。朴大統領が国防科学研究所(ADD)を創設(70年8月6日)したのも、6・25戦争勃発20周年行事で国立墓地を参拝する予定だった朴大統領を、北側が遠隔操作爆弾で爆殺しようとして失敗した「顕忠門爆破事件」の1ケ月半後のことだった。防衛産業建設を急ぐため、近代化戦略を「先自主国防、後経済開発」に調整せざるを得なかったのだ。
金日成が第2のベトナム戦場化を画策しながらも、ニクソン大統領が駐韓米軍の撤収を強行したのを見た朴大統領は、国防部に対して防衛産業10カ年計画樹立を指示した。試行錯誤を経て、青瓦台「経済第2秘書官室」が作られ(71年11月)、「民需産業育成・補完を通じての防衛産業基盤構築」という方向が定まった。機械工業の育成のため、4大核心(core)工場の建設を決定した。(1)鋳物銑(鋳物用銑鉄)工場(2)特殊鋼工場(3)重機械工場(4)造船所だ。
日本の日立をモデルにして昌原機械工業団地の建設に着手した(73年9月)。昌原機械工団は15万人の規模を誇り、日立の8万人の約2倍となった。朴大統領の決断であった。
(つづく) |