『日本書紀』〈神武紀〉は沸流百済の大和侵寇を物語るものであり、〈崇神紀〉〈神功紀〉〈応神紀〉なども新羅系山陰王朝を簒奪していく沸流百済の物語と思われる。安康の時代、混乱の無政府状態であったことは明らかで、その背後に氏族間の激烈な抗争があったことを示唆してきた。
〔雄略紀〕
丹波は新羅系山陰王朝の拠点の一つ
安康は、アマノヒボコ集団に淵源がある。雄略はその後を引き継いだ大王であり、安康の延長上の朝廷と見られている。安康がアマノヒボコ集団の後裔であるとしたら、雄略自身はどうなのか。その後裔であったのだろうか。
雄略は、ライバルをことごとく殺戮して大王位を掌握した大悪大王として認識されているし、また、手当たり次第に女性をあさるというのが一般的なイメージだ。雄略は、当時大王であったと思われる市辺押磐王を近江国愛智郡の来田綿蚊屋野(くたわのかやの)で謀殺した。そのため、市辺押磐王の子の意祁王(仁賢)・袁祁王(顕宗)の兄弟は恐れて、丹波国余社郡に逃れ、名を丹波小子(わらは)と変えて、播磨国赤石郡に身を隠した。
李寧煕著『もう一つの万葉集』は、『万葉集』の巻頭を飾る雄略の歌は、妻問いの歌として知られているのだが、実際は即位宣言歌だという。
丹波は、大和朝廷の支配下にあったというのが通説だが、市辺押磐王の2人の王子が丹波に逃れたという伝承は、その通説を覆すものであり、雄略の時代になっても丹波は大和朝廷の支配下にはなかったことを暗喩するものだ。
その丹波は、新羅系山陰王朝の拠点の一つであり、初期大和王朝はその丹波、実際は丹後勢力によって樹立されたと考えられる。それは、沸流百済による百済系大和王朝が樹立されるまでは、大和の地に先行していたホアカリ=ニギハヤヒを始祖とする新羅系山陰王朝であった。丹波と大和は、弥生時代から、同じ銅鐸文化圏を形成する地域であったと見られている。
『日本書紀』はこうあってほしいと願った歴史小説
397年、高句麗広開土王によって撃破された沸流百済が倭地に避難し、大和に侵寇して百済系大和王朝を樹立したが、先住の新羅系山陰王朝の激しい抵抗に遭い、事はスムーズに運ばなかったと思われる。
仁徳によって、沸流百済の王が認知されたのだが、その後も倭地勢力(新羅系勢力)の反撃が続き、雄略の時になって、やっと沸流百済による百済系大和王朝が名実ともに倭地の朝廷となったと自認した。 |