忍坂大中姫の名代部である刑部の設置がそれを暗喩する。すなわち、忍坂大中姫は刑罰をも執行する実権を持っていたのではないかと思われるのだ。ともすれば、『漢書』が記す呂太后のように、反正朝を支えた者たちを粛清したということもあるのかもしれない。
余談ながら、朝鮮通信使の事績をいろいろと記す『日鮮史話』に、「朝鮮の歴史に拠ると。朴堤上は新羅訥祇王時代の人で、彼れが日本に使したるは、允恭天皇の朝に相当する」とあるが、新羅の忠臣とされる朴堤上は、『日本書紀』には毛麻利叱智という名で、〈神功紀〉にその故事が記されている。『日本書紀』の紀年の恣意性を示す一例というものかもしれない。それゆえ、小説の『日本書紀』を史書にする新解釈の古代史が必要となるのだ。
〔安康紀〕
〈安康紀〉は血なまぐさい暗殺事件で覆われている
宿禰という称号が臣下のものであることから、大王位は夢また夢であったはずで、兄たちからも軽侮された存在の雄朝津間稚子宿禰(允恭)が、妻の忍坂大中姫の野望によって大王に就任したことから、忍坂大中姫の尻に敷かれた存在であったろうことを明らかにした。
その允恭擁立には百済から渡来した弓月王グループも加担したであろうことも、また忍坂大中姫はアマノヒボコ(天日槍)の後裔氏族である息長氏族と深い関わり合いがあり、その背後には新羅の支援があったことも明らかにした。
安康の在位年数は即位と死亡年度まで合わせても3年間に過ぎず、治績もほとんど見られない極めて短いものだ。〈安康紀〉の多くは、木梨軽王子の死、大草香王の災厄、眉輪王の父の仇、市辺押磐王を謀殺という血なまぐさい暗殺事件で覆われている。
ところで、安康の和風諡号は穴穂と極めて短いもので、穴穂は穴太とも書かれ、伽耶諸国の安羅にも通じるということで、その穴太は、アマノヒボコ集団に通じる地名でもある。穴穂はまた、鉄鏃のことだとされている。
銅器文明から鉄器文明へ進化したというのが通説であったのだが、最近の研究では、ギリシャやローマの青銅器文明と、スキタイの鉄器文明とが併存していたことが明らかにされた。鉄器文明を携えた遊牧民が東へと移動し、アルタイ山脈のある中央アジアで二手に分かれて、一方はさらに東へ進んで韓半島へ、一方は南に下って中国方面へ移動したという。 |