古代史という観点で日本は中国に感謝しなければならない。日本が完全な記録時代となるのはようやく7世紀ごろからで、それ以前のことは皆目わからない。中国の史料がなければ邪馬台国も卑弥呼も日本の古代史にまったく姿を現さなかったわけで、江戸時代から現代まで続く邪馬台国論争が生まれるべくもなかった。
8世紀前半にできた古事記や日本書紀の編纂者は中国や百済の史料に助けてもらった。十数種類の史料を使い「一書にいう」とか、具体的に資料の名をあげて書き加えている。卑弥呼の場合は「魏志にいう」という形で女王の存在はとりあげているが、邪馬台国も卑弥呼も無視、神功皇后に比定して逃げている。一方、連載のテーマとなっている5世紀の倭の五王による中国南朝への朝貢・冊封は一切書かれていない。卑弥呼同様”我々には関係のない人たち”というように。
その一方で、武に比定される雄略紀に”中国の呉国が朝貢してきたので答礼として二人の臣下を呉国に遣わし呉が献じたガチョウ2羽を持ち帰ったが犬に噛まれて死んでしまった……”という、いやに具体的で一国の国書としては珍なことが書かれている。中国の江南とは交易民の往来はあっただろうが、中国王朝が朝貢してきたとは実に大胆で驚くべき記事である。
だいたい呉国は紀元前の春秋時代と3世紀の三国時代に存在した国で、すでに滅びている。当時存在した宋という国名を記していないことで、日本書紀の記述はあやしいものである。
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5世紀、倭の5人の王が韓半島の高句麗より南の軍事・行政支配を主張し、宋王朝(南朝)に朝貢したという歴史的事実を検証している。
記紀を読むと倭(日本)はずいぶん早い時期から小中華・小帝国意識を沸騰させていたことがわかる。前述したように中華思想の本家から朝貢使が来たという話にまで発展させている。そんな意識が生まれた背景は、韓半島の国々が争乱のなかで人口が多く、武ばった倭勢力の後ろ盾を得ようと朝貢したり人質を送ったりの超低姿勢外交に威張り、その気になってしまったからではないのかと思う。それが皇国史観を生み、現代まで続いたことになる。記紀編纂者はその思想により卑弥呼の魏、五王の宋への朝貢・冊封を皇国にあり得ない国辱ものと考え、まったく無視したのではないだろうかと思える。
倭の五王が韓半島南部を支配していると主張した理由も解かなくてはならない。現代の歴史学では4~5世紀に百済や新羅は明白に独立国であり、加耶の小国家群も決して倭の支配にあったわけではないというのが大勢である。その非現実的な主張には五王の心の中…深層心理があったのではないか、というのが私なりの見解だ。
韓半島は古代、動乱が続いた。有史以来、4世紀ごろまでに滅びた勢力だけでも箕子朝鮮、衛氏朝鮮、中国直轄地の楽浪・帯方郡。〓貊勢力もいなくなった。さらに馬韓が百済に、辰韓が新羅になったのだが、平和に建国したとは思われない。馬韓は50もあった小国がひとつに。辰韓は12の国がひとつになったわけである。百済の王族はツングース系、新羅の王族はツングース系と韓族だったと言われるから征服王朝ということである。当然、旧馬韓・辰韓の数十の王や王族たちが国外に弾き出されたことだろう。ある王は隣国の加耶へ。ある王は倭に。さらにそれらの勢力の侵入に加耶の人も弾き出され日本列島へ逃げたのではないかと想像できる。古代に世界中で起きた民族移動、ドミノ倒しが韓半島でも起きたはずだ。
五王はどこの勢力であったかは前号で書いた。唐書によると、古代、倭には二つの大勢があったと紹介している。
〈旧唐書:10世紀に成立〉日本国は倭国の一種族である…、日本は小国であったが、その後、倭国の地を併合した。
謎の記載といわれるものの倭とは白村江で戦った相手である。敵国のことを知らぬはずはない。だから新羅の王子を脱出させた朴堤上の逸話から倭の五王は北九州の勢力ではないかと想像した。倭の五王の謎…は結局こういうことではなかったのだろうか。ポイントは「故国への思い」だ。
倭の五王は10回以上も使者を送って執拗に叙正を求めたが、すでに消えてなくなっている秦韓(辰韓)と慕韓(馬韓)を加えていることにヒントがある。韓半島の混乱時に倭に逃れ(あるいは加耶を経由して)、後に北九州で力をつけた渡来人勢力の王族の後継者が五王ではなかったのではないだろうか。故国を追われながら、昔の征服者から朝貢や人質を受けるようになった力関係の変化によって生まれた意趣返しである。
いわば元々自分の国であった地域への思いが朝鮮半島南部の支配権の主張であったのではないか。倭の五王の謎をそう解いた。
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