韓米のポールバニヤン作戦は、韓米連合軍による韓国防衛の実状が、実際の状況を通じて明らかになった貴重な事例だ。作戦終了後、「斧蛮行」事件の収拾過程も韓国人には米国の政治・軍事戦略と考え方を観察できる貴重な機会となった。ワシントンの立場は、米国の威信回復という政治的目標達成が優先だった。ワシントンの意図を実行することが国連軍司令官の任務だ。
スチールウェル司令官は1976年8月20日の夜、JSAを訪問、警備部隊長のヴィエラ中領の部屋で作戦に投入される韓国軍空輸部隊に作戦を指示し、厳しく非武装出動を強調した。国連軍が規定を破って挑発したという口実を北側に与えないためだっただろう。実際、それまでJSA内では両側とも銃撃をしていなかった。だが、空輸部隊には受け入れ難い指示だった。韓国軍系統からは異なる指針を受けていたのだ。
JSA作戦は状況変化に直ちに適応できるよう指揮体系を圧縮した。ヴィエラ特殊任務部隊指揮官(JSA大隊長、中領)↓ブラディ特務任務部隊長(2師団長、少将)↓国連軍司令官。
スチールウェル大将は、韓米1軍団をはじめ、作戦に参加するすべての空軍、ミッドウェイ空母など海軍にも指揮した。
最悪の状況に備える措置も講じられた。戦死したボニパス大尉の陸士同期生であるライト大尉は、サージェント戦術弾道弾の稼働準備を監督した。サージェンミサイルに核弾頭を装着する状況も検討されたという。北側の反撃で局地戦を超える拡戦に対する抑止対策だった。
国連司令部は、ポプラの木の切断作戦の開始と同時に、JSAの共同日直将校チャンネルで北側に通告することにした。内容は、
「7時に国連司令部の作業団が水曜日(18日)に始めた任務を完遂するため、共同警備区域に入る。もし、妨害がなければ作業を完了してから作業団は立ち去る」
国連司の共同日直将校のスキル少領は、北韓側の共同日直長校事務所にメッセージを送り、中立国監視委員会のスイスとスウェーデンの宿舎にも状況を伝えた。
同じ時刻に北韓軍側に国連司の切断作業を口頭で通告する任務は、韓国軍の先任将校の金・ムンファン大尉に付与された。金大尉は、北韓軍に、「戻らぬ橋」の中間の軍事境界線、つまり橋の西側の北朝軍哨所の20メートルまで接近、国連軍の作業計画を拡声器を使って伝えた。北韓側が武力で対応する場合は、金大尉が韓米両国軍のうち最初の犠牲者となるはずだ。
交戦規則は部隊によって少しずつ違ったという。ポプラの木を伐る特攻隊は、3発以上の銃声が発せられてこそ交戦開始となる。
北側の哨所は、国連軍の作戦を全く知らなかった。作戦が始まって約10分後、小火器で武装した北側の増員兵力約150人がバスとトラックで北側の哨所に到着したが、兵力を下車、隠蔽させた将校たちは右往左往した。
ポプラの木を伐るのは予想より時間がかかり45分で終わった。空輸部隊員数人が北側の第8哨所へ行き内部を破壊するとヴィエラ中領が制止した。8時30分頃作戦に投入された兵力がJSAから撤収した。
午前10時15分、ブラディ師団長が搭乗した指揮統制ヘリコプターがJSAの直ぐ南を旋回中、北韓軍がヘリコプターに向けて自動火器で発砲した。直ちに6機の武装ヘリコプターが北韓軍陣地に向かって突進、照準するや北側は射撃を止めた。機体に若干のダメージを受けたほかは、負傷者・重大な被害はなかった。
(つづく) |