韓国の尹錫悦大統領が昨年12月3日、夜間に戒厳令を発するという暴挙に出た。戒厳令はわずか6時間で解除されたが、混乱はしばらく収まりそうにない。尹氏が極端な手段に出た大きな動機が、反国家勢力、すなわち「従北反国家勢力」に対する憎悪だったことは、この間の大統領としての言動から読み取れる。間違いない。
例えば、「共産全体主義勢力は常に民主主義運動家、人権運動家、進歩主義行動家に偽装し、虚偽扇動と野卑で倫理破壊的な工作を行ってきた」「共産勢力とその追従勢力、反国家勢力は、虚偽でっち上げと宣伝扇動で我々の自由民主主義を脅かしている」「虚偽情報やフェイクニュースの流布、サイバー攻撃のような北韓のグレーゾーン挑発に対する対応態勢を強化しなければならない。韓国社会の内部では、自由民主主義体制を脅かす反国家勢力があちこちで暗躍している。北朝鮮は開戦初期から彼らを動員し、暴力と世論操作、そして宣伝・扇動で国民的混乱を深めるとともに、国論の分裂を図るだろう」などだ。しかし、これらの発言を見ても、どのような定義で使われているのかはいまひとつハッキリしない。
韓国左派勢力のなかに、金正恩体制に盲従する従北勢力が存在することは疑いようがない。北韓の金正恩総書記は韓国を敵国と規定していることから、いざという時は、従北勢力を利用して宣伝工作や破壊工作をしかけることは想定の上で対処しなければならないのはいうまでもない。
ただし、自分を支持する政治勢力や保守派以外を全て従北勢力とレッテル張りをするのは、かなり強引である。韓国の左派・リベラルが北韓の脅威に対して無頓着であり金正恩体制に対してかなり甘いのは間違いないが、そもそも北韓に対して極めて無知だ。筆者は彼らと議論する機会は少なくないが、確信犯的に北韓に従う従北勢力や極左勢力と一緒くたにするのは偏狭な見方と言わざるをえない。
なによりも金正恩氏は韓国との統一を全否定している。金日成、金正日時代ならいざ知らず、北韓による赤化統一脅威論はいずれ亡霊となっていくだろう。
北韓にとって今回の戒厳令騒動は予想外の出来事だったと同時に、いささか当惑しているようだ。実際、北韓国営メディアは戒厳令直後は沈黙を守り、昨年12月11日になってようやく国際面で報じた。
その後も12日、16日と報じたが、すべて韓国内の報道を引用するだけの中身の薄い記事だった。北韓に対してあの手この手で圧力をかける尹錫悦政権の崩壊は、金正恩氏にとって極めて望ましいことだが、国家の最高指導者による強権発動を、民主的な政治で選ばれた国会議員たち、そして一般市民らが民主主義的手段で食い止めたという事実は、面白いものではないはずだ。韓国社会の民主的な現実が北韓国内に伝われば、韓国への憧れはいっそう強まりかねないからだ。とはいえ、韓国の混乱が長期化し、相対的な国力低下につながった方が、金正恩氏にとって利益は大きい。北韓との対話を掲げる進歩系野党が韓国政権を担えば、時間を稼ぎながらロシアとの連携を深め、自国の力を強化することができる。
尹錫悦大統領の戒厳令は、結果的に北韓に有利な状況を作り出す可能性が高い。それだけでも、尹錫悦氏は弾劾されるにふさわしい。
高英起(コ・ヨンギ)
在日2世で、北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。著書に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』など。 |