繰り返しになるが、朴正煕大統領の安保戦略は、経済的に国力を育て、経済力を基盤として国防力を強化するという冷静に計算された現実路線だった。
韓国は米国を通じた経済発展と安保を確保せねばならなかったため、ベトナム戦にも派兵した。だが、米国は決定的な瞬間にいつも冷たかった。
米国は北韓側の特殊部隊が青瓦台を襲撃し朴大統領殺害を試みた重大な戦争行為より、その2日後(1968年1月23日)、元山沖で発生した、米海軍の情報収集艦プエブロ号の拿捕事件をより重要に扱った。プエブロ号事件を管理するため、青瓦台襲撃に対する韓国の対北報復を抑制した。韓国としては耐え難い侮辱だった。
ベトナム戦に1個軍団を派兵したのに、ジョンソン大統領が約束した、米軍がベトナムから撤収するときは必ず事前に協議するという約束が、後任であるニクソン大統領によって簡単に破棄されることを見た朴正煕大統領に残されたことは、国家非常事態を宣言(71年12月6日)して、この危機を突破するしかなかった。韓国は、朴大統領の陣頭指揮のもと団結した。いかなる場合でも政府の政策と措置に対する批判や抵抗があるものだが、驚くほど全国民の意志と力量を結集できた。
経済発展と国家安全保障を並行してきた朴正煕政府としては、安保にすべての力量を集中することはあまりにも当然かつ正当な対応だった。主敵である北側の脅威に比例した措置であると同時に、ニクソン・ドクトリンへの比例的な措置でもあった。だが、この正当な措置に対するワシントンの反応は、朴大統領は民族主義者で警戒すべき人物ということだった。
事実、朴正煕大統領に好意を示した米国大統領は、ケネディ大統領とジョンソン大統領だった。ケネディ大統領は、5・16軍事革命から半年後の61年11月、国家再建最高会の朴正煕議長を非公式招待した。
ケネディ大統領と朴正煕議長は17年生まれで同い年だった。朴正煕議長は戦略的にケネディ大統領に韓国軍のベトナム派兵を打診した。ケネディ大統領はこの会同を通じて、朴正煕将軍を信頼できる指導者と評価した。
朴正煕大統領は18年間の在任中、国家元首(大統領)の資格で8回外国訪問に出た。総訪問国は8カ国だった。西ドイツ(64年12月)、米国3回(65年5月、68年4月、69年8月)、マレーシア(66年2月)、タイ(66年2月)、台湾(66年2月)、フィリピン(66年10月のベトナム戦参戦7カ国首脳会議)、豪州2回(68年9月、68年12月)、ニュージーランド(68年9日)だ。朴大統領はニクソン・ドクトリンの後は外国に行かなかった。
事実、外遊をするほどの経済力もなかったが、朴大統領は国土の隅々を回り、国家建設に邁進した。朴正煕大統領は慣習と形式にこだわるのを好まず、そのような形式主義を軽蔑した。朴大統領は名誉博士号を授与するという数多くの提案をすべて断った。
開放と対外進出を推進するには体制の異なる国々や地域に進出、交流、貿易をせねばならなかった。新しい地平線を開く必要があり、そのためには韓国自身が変わらねばならなかった。
輸出主導型の経済外交を拡大するため、韓国は70年代からは非同盟外交を強化した。自主的に対外関係の地平を開く努力自体が大韓民国の資産となっていた。李承晩大統領と朴正煕大統領の情熱と献身により、大韓民国は初めて国民国家の姿を整えることができた。
(つづく)
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