日本の知識人と異なり、我々に転向はない、と金達寿は胸を張った。朝鮮人は転向するような弱弱しい精神の持ち主ではない、と大きな身体を振るわせて豪語した。日本人共産党員が獄中転向したことに、金達寿は批判的であった。我々には天皇はいない、金達寿の非転向論の根拠であった。
朝鮮人は天皇陛下を崇めることはなかった。だから、朝鮮人共産主義者は、日本人共産主義者のように転向することもなかった、という論理であった。金達寿の非転向論は一見、論理的に見えたが、戦前の武装共産党の指導者であった田中清玄の転向を考察していけば、朝鮮人に転向はない、という理屈が非論理的だと気付く。
在日朝鮮知識人で見事な転向をした、転向の軌跡をたどった姜在彦を見ると、幾人もの在日知識人が転向していく軌跡が見えてくる。金達寿は未完成な転向であったが金石範、金時鐘に姜在彦と、各自の転向の軌跡が見える。
そもそも「転向」とは何かである。天皇制に付けて論じられるが、転向とは分かり易く言えば「インターナショナル」を歌わなくなった時である。歌わなくなる理由には様々ある。金石範には金石範の、金時鐘には金時鐘のインターナショナルを歌うことが恥ずかしくなった時期が見えてくる。
その中で姜在彦の転向を論じるのは、その転向の軌跡に関わったからである。先ず、姜在彦が日本窒素の朝鮮半島への展開を論じて、野口遵は陸軍の要請に応えて軍需を支援した。
日本窒素は、日本の企業ゆえに日本の戦争を支援していった企業であり、朝鮮農民のためには余り役立っていなかった。だが、金日成が政権を取ると残されていた日本窒素の工場群は朝鮮農民のため、朝鮮の民生のために尽くした、と論じた。
それは可笑しな論理であった。日本窒素の工場群が存在したから金日成の人民軍は南進できた。朝鮮戦争の休戦後も、日本窒素の工場群は民生よりも軍需中心に動いていた。どちらかというと、日本窒素の方が朝鮮農民の生活に資した、と私は姜在彦を突いた。
さらに、実弟は全斗煥や盧泰愚と陸士の同期で、優秀であったが国軍を追われた。朴正熙は実兄(姜在彦)が朝鮮総聯の活動家だと判ると、国軍から追い出した、と語った。むろん、姜在彦は講演などでも喋っている。
私はその姜在彦の朴正熙批判は、少し外れているだろうと手紙に書いて出した。私は、長兄が朝鮮総聯の活動家として朴正熙を批判しているから、実弟を国軍から追放したとは断定できないと書いた。
問題はソウル大学に学んでいた弟で、姜在彦の次弟が人民軍の中将として平壌に存在している。姜家の三兄弟は、長男が朝鮮総聯の活動家、次男が北朝鮮人民軍中将、三男が国軍の少将となることに朴正熙が仰天したのではなかろうか、と論じた。
姜在彦は、私の手紙に反応して直ぐに大阪から上京してきた。そこで私は、長兄が朝鮮総聯の活動家くらいで朴正熙大統領は動じないだろう、と述べた。聞くところによれば、弟さんは平壌で健在らしい。長兄の朝鮮総聯の活動家よりも、次兄の人民軍幹部に気付いて、朴正熙大統領は弟を国軍から外した、と見られると主張した。
姜在彦は黙って私の論理を耳にすると、暫く秘密にしてくれないかと、私に懇願してきた。
「在日の貴重な時間をマルクス経済学に集中し、戦争が終わればできるだけ早く帰国する(『歳月は流水の如く』47頁)」など、姜在彦が二度と言えなくなった瞬間である。それからの姜在彦は呉星会の徐彩源に導かれて行く。マルクス経済学の先に楽園はなかったのだ。 |