東西冷戦が深まっていた時期には、国際政治状況は比較的単純だった。米ソ冷戦体制では、ほとんどの国々は米・ソのどちらかの陣営に加担するしかない状況だった。韓国のように先鋭な冷戦の最前線に置かれた国は、自由陣営の盟主の米国との関係をよく維持することが外交安保政策の不可避な選択だった。韓日国交正常化でこのような国際政治状況で当然の結論だった。
平壌側が南韓を本格的なゲリラ戦場にしようとしたとき、米国大統領が交代した。誰よりも徹底した反共闘士だったニクソンは西欧の防衛に集中するため、ベトナム戦争の終息を模索した。ニクソンはグアム・ドクトリン(1969年7月25日)を通じて今後アジア地域で戦争が勃発しても、米国は戦闘部隊を派兵しないと内外に宣言した。米国はベトナムから撤退し始めた。
朴大統領は、ニクソンに韓米首脳会談を要請、69年8月、サンフランシスコでニクソン大統領に会った。朴大統領は韓国軍の戦闘力強化のため軍装備の現代化と防衛産業育成への支援を要求した。東西冷戦が米ソ対決体制からデタントという解氷ムードが始まるや、韓国のように国際秩序構造の下位に位置する国家の安保状況は非常に厳しくなった。
米ソ間の緊張は緩和されたが、米ソの代理戦的性格だった南北関係では緊張緩和は全く訪れなかった。ニクソン・ドクトリンは間もなく駐韓米軍の2万人(1個師団)の一方的な撤退として現れた。米国は中共を承認、国交を再開した。自主国防能力を備えていない状況で北側が攻撃してくる場合、米国の即時の支持・支援が期待できなくなった韓国は、緊急事態に陥るようになった。韓国は維新体制をもって、平壌側は社会主義憲法改正をもって体制を強化せざるを得なくなった。
後日の話だが、在韓米軍の全面撤収を公約として当選したジミー・カーター大統領は、朴正煕政権の独裁政治を駐韓米軍撤収の理由として挙げた。世界の覇権を競った米国が、「道徳的理由」を軍事政策・戦略に適用しようとしたのだ。結局、朴正煕大統領の失脚(死亡)につながる核開発の挑戦も、米国のこのような豹変への凄絶な対応から始まったのだ。
朴正煕大統領はこの苦痛な状況を次のように記録に残した。「軍を維持するには経済再建を制約せねばならず、経済を再建するには軍を減らさねばならない。国家の事情は進退窮まる。こうすることもああすることもできない。難関がこの一つだけなら良いのだが」
しかし、進退窮まるは現実だった。朴正煕大統領は在韓米軍の「抑制機能」を最大限引き出すのに集中するしかなかった。そもそも、ベトナム戦に韓国軍派兵も、在韓米軍の維持を通じての抑止力確保のためだった。しかし、強大な米軍がベトナム戦で勝てなかったことで分かるように、戦争(軍事力)は絶えず変化する非対称的性格が結果を支配する。
米軍の抑止力に依存する韓国の努力には明白な限界があった。韓半島で熱戦が再発しても、もちろん北韓側が韓米同盟に勝つ可能性はない。だが、韓半島が戦場となれば、韓米同盟が最終的に勝利しても、韓国は回復し難い甚大な被害を被った後になる。
米国は「北進統一」を主張してきた李承晩政府から韓国軍の「北進」の可能性牽制・遮断は米軍の公開しない重要な課題だった。それで朴大統領は米国の懸念を遮断するように「武力による国土統一を望まず平和的方法で統一を追求し、UN監視下で南北総選挙」を強調した。
(つづく) |