5・16革命は歴史上最も成功したクーデターと評価される。米国(国務省)は、自分たちが主導しなかった(主導できなかった)クーデターについて不満だった。韓国の安保上、米国の絶対的な重要性をよく分かっていた朴大統領は、米国との関係を全般的に管理した。在韓米軍は、韓国の安全を保障する装置だった。韓米間には絶えず葛藤要因が生じたが、現実的によく対応した。もちろん、米国への圧倒的・絶対的な依存に対し、従属せざるを得ない現実や副作用が避けられなかった。
朴大統領は自叙伝で「明日にも米国の援助と関心が切れたら、私たちはどのような対策が講じられるだろうか」「一日でも早く自主経済を確立し、我々の暮らしは我々が責任をもって解決する。その宿願を達成しなければならない」と自主性を吐露している。
朴正煕は、米国が途方もない金額を援助してくれたのだが、韓国が望む工業生産施設にはケチで、望まない消費の分野にばかり積極的だった点などを吐露している。しかし、それは米国だけの誤りなのではないという、バランス感覚も維持していた。援助を受けるほとんど全ての国に共通した現象で、被援助国側の政策不足や努力不足、そして政権の腐敗を指摘、批判していた。
朴正煕は経済開発という国家の使命を達成する方案を知っていた。彼は、韓国の経済問題解決は米国の援助を離れては想像もできない現実を認識。米国から理解を得て、積極的な協力関係を模索した。何より、誠実さと血の滲むような自主努力を強調した。
韓国が過度に重い軍事力を維持している問題についても、「いつ、どこでどんな事態が勃発するか分からない休戦状態で、また国土統一の課題、ひいては米国を中心とした自由太平洋地域では、アジア大陸に構築された唯一の橋頭堡である点からも、60万の軍隊はむしろ小規模と言えよう」と自ら評価した。米国もこの軍事力維持に使われる援助を続けるしかなく、したがって韓国はこの途方もない不均衡状態を甘受せねばならないと自ら納得した。
朴正煕のこの優れたバランス感覚は、彼が最高権力者の任にあった全ての期間、彼の対米安保外交政策の根幹をなしていた。朴正煕は、米国を恨むことなく、米国を適切に利用することで韓国をさらに発展させねばならないという自律的発想、姿勢を維持した。
朴大統領の執権18年半は、国際政治的にも巨大な事件と危機の連続だった。朴正煕は、非凡な適応力をもってこの激しい危機的状況を成功裏に突破した。
戦禍を回避し、劣悪な安保状況の中でも奇跡的な経済発展を成し遂げた。特に米国の戦略・政策の変化には敏感に反応、対応した。当然のことだが、国際政治状況がそのまま韓半島に投影されたためだった。
1960年代の米国は、ソ連との対決に勝利を収めるという野心的な計画を具体化していた。米ソ関係は悪化し、ソ連は第三世界の民族解放運動の後援に拍車をかけていた。ケネディ大統領はアイゼンハワー時代の「大量報復」戦略から「柔軟反応戦略」に移行した。ベトナム戦争が拡大し、米国はソ連が支援する第三世界での如何なる挑発に対しても、積極的に照応するという意志を燃やしていた。
「民族解放戦争」に対するソ連の積極支援は、「6・25南侵戦争」という正規戦に失敗した金日成が、休戦後にも弛まず試みてきた対南戦略路線と正確に一致するものだった。朴大統領は、韓国の安保上での米国の重要性を一刻も忘れず、米国と良好な関係維持に努めた。 (つづく) |