”銀の匙を咥えて生まれた”という言葉がある。裕福な家庭に生まれたという意味を表す英語の慣用句だが、ここから派生したのが、韓国の流行語「金の匙」だ。2015年ごろからSNSで盛んに使われ始めたこの言葉は「スプーン階級論」という、新たなランク付けの社会現象を引き起こした。生まれによってその後の人生が決まるというランク付けの基準は、最高峰の「金の匙」から最下層の「土の匙」まで、概ね4階級に分けられる。匙の色が変われば、どんなに努力してもそこから這い上がることは難しいというのが、この言葉の意味するところだ。日本で言えばさしずめ21年に流行語大賞にノミネートされた「親ガチャ」がそれにあたるだろう。だが韓国の現実は、日本のそれ以上に厳しい。15年12月に、あるソウル大生が「匙の色が生存を決める」という遺書を残して自殺したことも、世の中に衝撃を与えた。最難関を突破したソウル大生ですら、そんな厭世観を抱くのかと考えたら、大学に行くことすら叶わなかった貧困層が希望を持てるはずがない。
22年放送のファンタジードラマ『ゴールデンスプーン』はそんな過酷な現実でもがく若者の姿を描いている。ドラマの主人公はイ・スンチョン。成績優秀で名門高校に通うスンチョンだが、貧困家庭のせいで級友たちから理不尽な扱いを受けていた。そんな彼が、ある日偶然、手にしたのがゴールデンスプーンだ。怪しげな露店で売られていた金色のスプーン。店の主人はそれを使って裕福な友人と入れ替わる方法を彼に授けるのだった。半信半疑でそのスプーンを買ったスンチョンは言われた通りの方法で、財閥の御曹司ファン・テヨンと入れ替わることに成功する。だがいまだ苦しい生活を強いられている元の家族を思うと、心が痛んでたまらない。
『TUBE』はドラマ『ゴールデンスプーン』と同じ22年に刊行された、作家ソン・ウォンピョンの長編小説だ。これまでにも『アーモンド』『三十の反撃』と、読者に感動と勇気を与える話題作を世に送り出してきたソン・ウォンピョン。本作では、変わりたいと願う主人公の、生き方改造の物語をユーモラスに描いている。主人公のキム・ソンゴンは貧し過ぎず、豊か過ぎない家庭で一人っ子として育った。大学を卒業すると、きちんと会社に就職し、実績を積んで評価され、資産を増やしていった。ところが、そんな順風満帆な暮らしの中にこそ、落とし穴が潜んでいる。判で押したような毎日が退屈になり、そこから飛び出したくなったのだ。その頃の時流は彼のような新しい挑戦と自由な人生をもてはやしていた。会社を辞めるというソンゴンの選択を誰もが羨み、祝福したのである。周囲の羨望と後押しを受けて、意気揚々と起業したソンゴン。だが、起業した元会社員の8割が失敗するという現実にはまだ直面していなかった。やがて、最初の事業に失敗し、次の事業を始めたソンゴンは、失敗と再起を繰り返すという、負のスパイラルに陥っていく。うまい話を聞きつけると飛びつき、上手くいかなくなると人のせいにした。自分が間違っていたとは認めず、妻子から愛想を尽かされて、ようやく、自分が変わらなくては、と思い至る。
誰もが一度は、今とはちがう自分になりたいと思ったことがあるだろう。自分の力で、あるいは何かの力を借りて、ちがう自分を夢見る。そんな別の自分を手に入れることは、果たして可能だろうか? ドラマと文学を通して、次回はさらに深く考察してみたい。 |