青年時代に満州で軍人の道をスタートし、解放と6・25戦争を通じて韓国が国際政治にどう振り回されるのかを体験してきた朴大統領は、国際情勢の変化に敏感で、精通しようと努力した。朴大統領は、5・16軍事革命の構想の段階から第3世界の国々での軍事革命・クーデターなどを研究したほどだ。朴大統領は、国際情勢の変化を知識や情報として知ることにとどまらず、せっかく得た高級情報を国政に反映し、戦略的に攻撃的に使用した。
軍事革命後に政府組織を整備する時も、安保においての情報の重要性を強調、外務部や中央情報部などの情報能力強化に努力した。国政の遂行はもちろん、社会全般の進取的気風と実用路線を強調した朴大統領は、韓国が置かれた険しい国際環境の中で対外関係においても実質的、実用的外交を志向した。朴大統領は、軍事力より外交を強調し、強硬策より対話を重視、強調した。
ニクソン米大統領のグアムドクトリン(1969年7月25日)に接して直ちに自主国防のための壮大な計画に着手した。しかし、現実は同盟の米国の絶え間ない牽制と監視の下で自主国防を推進するのは至難の課題だった。朴大統領は、米国が供給を拒否する武器や装備などを入手、確保するため米国から自主路線を追求していたフランスなどを利用した。
朴大統領は米・中接近を見て、米国の保護を受ける状況が続かない現実の上で現実的で実用的な外交政策を大胆に展開し始めた。 朴大統領は70年8月15日、光復節祝辞で、5000万民族の利益のため、平和的な方法で祖国統一を達成しようと提案した。わずか2年前「1・21事態」(金日成が送った特殊部隊の青瓦台襲撃事件)を経験し、やはり金日成が朴大統領爆殺を狙った国立墓地の顕忠門爆破事件から2カ月も経たなかった。
朴大統領のこのような努力が72年の「7・4南北共同声明」に具体化されるようになる。朴大統領は73年6月23日の「6・23宣言」を通じて、外交政策の転換を宣言した。つまり南・北韓の国連同時招請、同時加入に反対しないと宣言、東西冷戦時代の象徴だった「ハルシュタイン原則」を廃棄した。朴大統領は外交から泡を取り除き、実利外交、経済外交を強調した。朴大統領の哲学と方針は公務員社会にそのまま拡散した。
朴正煕時代の最も難しい外交は、米国と日本との関係だった。特に、日本は米国の要求などもあり、韓国と国交正常化をしたものの、韓国との関係を対等な関係と思わなかった。
日本は国交正常化の基本条約締結後すぐに大韓民国憲法の領土条項(第3条)を認めない立場を明らかにした。それで国交正常化後も、59年に始まった在日韓国人の北送を続けた。朴大統領の命を狙った暗殺計画が続き、労働党日本支部が訓練させた刺客の文世光が陸英修女史を殺害した事件が発生しても、日本当局は朝鮮労働党の要求に応じて始まった北送工作を続けた。北送工作が終了するのは、北送希望者が完全に消えた84年、つまり韓日国交正常化から19年後だ。
韓日間の交渉は、両側の価値と基準が異なって結局、最高位級の「政治的決断」で打開していた。文世光事件後、韓国当局は事件の重大性に照らして法的、政治的、道徳的に日本側の責任を明確にすべきと判断、日本側に要求した。韓国の要求が受け入れられなければ断交まで決定した。朴正煕大統領は駐韓日本大使の後宮虎雄大使を青瓦台に招致(74年8月30日)した。
(つづく) |