反朴正熙勢力・維新反対勢力は平壌の金日成治下でも抵抗したのだろうか。彼らは朴正熙がむやみに政敵・国民を殺さないと思ったから勇敢になれた。
彼らはワシントンが彼らを支持・保護してくれるという自信があったのではないか。彼らは常に外信に自分たちの存在と主張をアピールするのを最も重要視したのがその証拠だ。
いずれにせよ、中央情報部を非難する者は実はその使用人・大統領を攻撃することだ。朴大統領を直接非難することが怖いから中央情報部を非難したかも知れない。事実、情報機関を非難することは、刀を凶器として使う者を非難せず刀を非難するも同然だ。
朴大統領が緊急措置など「反体制」の挑戦勢力に対して敏感だったのは当然といえるかもしれない。朴大統領は自らの独裁に対し、維新体制に対して誇りと確信を持っていた。彼は革命家としての目標を一刻とも忘れたことがなかった。彼の価値観、死生観は凡人とは違った。彼は自分に博士号を授与したいという数多くの提案を断った。雅号を持つことも拒否した。彼は自分に反対する勢力に向かって「私の墓に唾を吐け」と言った。
だが同時に、朴大統領は、国家権力がどれほど脆弱に崩壊するかをよく知っていた。民主政治制度、正統性のある政府が必ずしも民主的方式のみで守られる訳ではないことを骨身にしみて分かっていた。事実「軍事革命」。クーデター謀議は当初、李承晩政府を転覆させた4・19義挙後、韓国社会が激しい混乱に陥ったとき、具体的に進められる。そして当初、4・19義挙の1周年を期して騒擾が起きれば、首都の治安維持のために出動させる部隊をクーデター軍として使う計画だった。
ところが、大きな騒擾なしで4・19義挙1周年が過ぎると、旗揚げが延期されたのだ。5・16革命に加担した部隊は、国軍全体から見れば少数だった。特にソウルに入ったクーデター軍の規模は、国軍のわずか0・5%の1個連隊兵力(3000人)ほどだった。つまり、政治の不穏は、いつでも予想できない事態を招くという教訓を得たのだ。
軍事革命の成功後も革命勢力間の分裂と同志の変心など数多くの試練があった。政治と選挙は醜い闘争であり、国民の正常な判断と支持も期待できないことを学んだ。メディアには隙を与えてはならない現実も悟った。
国家関係、同盟国との関係も全く期待してはならないことを学んだ。韓国の保護者である米国が、自国の利益の前では、容易に同盟を捨てる現実にぞっとした。南ベトナムの大統領が除去・殺害され、サイゴンが捨てられるのを見た。米国が、同盟国の安保より中共との和解を優先するのを見た。金日成が送った特殊部隊、刺客に自身が攻撃を受けても、ワシントンは韓国の報復、暴走を抑制することにもっと気を使った。
韓国に対して絶えず政治的訓戒や干渉をする米国が、いざ彼らの政治制度は完全でないことを見た。それで、その利己的で不完全な同盟のワシントンにぶら下がる政治家たち、維新に挑戦する勢力、観念的な民主主義を叫ぶ勢力を軽蔑したのかも知れない。
朴正熙が軽蔑した文民政治家たちは韓半島の冷戦にはあまり関心がなかった。朝鮮朝の両班の伝統を受け継いだ彼ら・文民政治家たちは、現実的難関に立ち向かう進取的精神も、問題解決能力もなかった。朴正熙にとっては、自分の近代化革命目標に抵抗する勢力は、近代化の基礎がしっかりとできるまでは、基本的に教育と薫陶の対象に過ぎなかった。
(つづく) |