今夏の第106回全国高校野球選手権大会で優勝した京都国際高校の快挙にお祝いを申し上げたい。
20世紀末、学校は生き残り策として校名を変え、日本人に門戸を開放した。野球部創設はその目玉である。こうした経緯が連日報道される程に韓国においても関心は高い。韓国語の校歌がテレビ中継で日本中に流れたことに、多くの在日同胞や本国の人々が胸を震わせた。しかし、日本国内の高校生スポーツ大会は民族感情、ましてや国威発揚の道具ではない。
学校関係者が提出したとされる「東の海」という日本語訳に対し、一部の韓国メディアは「歪曲」と非難を浴びせた。正々堂々と「東海」を主張することがスポーツマンシップだと。同時期に開催されたパリオリンピックにおける報道姿勢とは真逆である。ナショナリズムを煽ってきたことに対する反省から、韓国のスポーツ報道は選手の努力を称え、ナショナリズムと切り離す方向に変容した。こうした中、在日同胞に対して国家の論理を強要する姿勢は異様に映った。
決勝を控え、選手らは『刺されないかな』と話しあったという。この発言は日本人選手によるものである。国家間の憎悪や暴力は常に境界に置かれた者に向けられる。日本で民族を背負い、表に出すことにはこれ程までの重圧が伴うことに韓国社会は無知である。
京都では朝総連系の朝鮮学校がヘイトクライムの標的となった。わずか10年前のことである。在日同胞にとっては未だトラウマであるが、韓国では他人事である。「韓日親善」という外交的修辞にすら軽薄さを覚えてしまうのは、こうした状況があるからである。
何よりも優先されるべきは、否応なしに民族や国家を背負わされる選手や学校の安全である。「歪曲」によって命を守ることができるのなら、その誹りを大人が引き受けるのは責務ですらある。ただし、今後もこうした状況を引き受けていくのか、学校関係者らが膝を突き合わせ、議論を重ねることによって方向性を模索していく必要がある。
校歌よりも誇るべきは、優れた指導者の下、韓日の選手が共に集う野球部を持つ学校を在日同胞が運営し、韓日両政府が支援しているという事実である。京都国際には校舎移転に際し、地域社会から猛反発を受けた痛切な経験がある。移転後、地域に愛される存在となるべく尽力した末、「韓国の」、「韓日の」以前に「地域の」学び舎となった。京都国際のアルプス席に近隣の学校から生徒が集まり、甲子園の観衆から温かい声援が起こったのはその賜物である。
忘れてならないのは「韓日親善」はその先にあるという事実である。無名の人々による日々の積み重ねにこそ母国社会の関心が集まり、積極的ではあるが静かな支援を為政者に求める声となってほしいものである。
金雄基・翰林大学日本学研究所教授
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