ある冬、二人の旅びとが九州の筑紫(福岡)を立ちながら歌を一つ残した。その歌が1294年ぶりに完全な形で解読された。その歌について話してみたいと思う。
今年の2月から始まった統一日報の「郷歌で読む万葉集」の連載に対する、日本の万葉集研究者などからの貴重なご意見を8月15日特集号の紙面を通じて頂いた。その中には、大伴旅人が作った446番歌についての研究が待たれるという要望もあった。今まで750首余の作品を解読した私は、さっそく446番歌を解読してみた。結果は「愛の歌」だった。
大伴旅人という役人が728年、九州の太宰府の長官=太宰の帥(そち)に任ぜられ、その後730年12月に上京を命じられた。彼が65歳のときだった。その頃、傍で世話をしてきた妻が亡くなった。
大伴旅人は涙歌5首(万葉集446~450番歌)を作り、あの世の妻に捧げた。そして、大伴旅人も後を追うように翌年に亡くなっている。
長い間、人々から大きく関心を引かなかった446番歌は、大伴旅人の涙歌5首のはじめの歌だ。951年、梨壺の五人と呼ばれた寄人(よりうど)が村上天皇の命により万葉集の解読を試みたが、未完成で終わった。誰もこの歌の哀切さが分からず、今日まで1294年の歳月が流れた。この歌を今、郷歌制作法をもって解読する。果たしてどのような内容だろう。
吾 妹 子 之
見 師 鞆 浦之
天 木 香 樹者
常 世 有 跡 見之
人曾 奈吉
私の世の中の道理に疎い妻が、幼い子を残しあの世へ行っているね。
見えるね、人々が弓を射ている中、あの世へ向かう船が着く渡し場に向かう姿だね。
天の下の人々は、小さな木を大きく繁る木へと育てなければならないさ。
人々は常に、この世に残っているあなたの名残を見て見習わなければならないね。
人々が涙を流しているよ。
あなたのいない世の中に、何でいいことがあるだろう、と言いながら。
梨壺の五人以降、人々はこの作品を次のように推量した。
我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき
(私の妻が見た鞆の浦のむろの木はそのままあるけれど、見た妻はいない)
これまでの解釈が正しいかどうかは言わない。郷歌制作法で解読した歌の中に込められた痛みの深さとの差を吟味すれば分かるはずだ。次号は一節ごとに解いていく。
446番歌、冬の旅びと<続く> |